12人のうち、自分はだれに一番近いんだろう?
みんな言うこと聞いてくれなくて、ふて腐れる陪審員番号1番? 自分の意見を言えずオロオロする2番? あるいはずっと怒り続けてる3番?
……とここまで書いて、結局、全員自分の中にいることに気がついた。ビリー・ミリガンは24人いたけど、僕の中にも12人くらいいるってことだ。
だから、そう、あの陪審員番号10番も、僕の中にいるんだ。映画版が古典的名作として知られてる『12人の怒れる男』だけど、映画では10番は中ボスクラス、ラスボスは3番、4番で、ここをいかに攻略するかという話だった(いや、ゲーム的に言えばね)。
ところがこの舞台版、特にこのイレブンナイン版『12人の怒れる男』は、10番とどう向き合うか、という内容だった。物語が始まって、序盤からすでにこの10番はおかしい。正直、彼とは議論にならない。彼には議論する気がないのかもしれない。自分の意見以外は聞く耳を持たず、他者への寛容さはかけらもない。
いったいこの人は、どういう人なんだろうと思ってしまう。なぜこんなにも怒っているのか。いや、怒りというよりも嫌悪だ。なにかを異様に嫌悪している。その理由が、嫌悪の元がわからないまま劇は進んで行く。だから彼については、不可解で、気持ち悪い。
そしてついに、彼の嫌悪の元があかされた時、この古典的な物語が、なぜいま上演されなければならないのかが、わかる。彼の中にあった、移民してきた他人種への嫌悪、差別感。底なしの憎しみがあきらかにされた時、ゾッとする。
だけど、もう一度書くけど、僕の中にもきっと10番はいる。僕だけじゃない、だれの心の中にもいるはずだ。僕たちは普通に日々を過ごす中で、わけもなく差別心をむき出しにして叫び出すことはない。
だけど考えてほしい。もし隣に引っ越してきた外国人が、朝からうるさい故郷の音楽を流し始めたら? ゴミのルールを守らずに不衛生で臭いもキツくなってきたら? 自分の仕事が外国人にとられてしまって無職になってしまったら? そういう時に陪審員(日本では裁判員)に選ばれて、被告が、日ごろイラッときていたのと同じ国籍の人間だったら?
その時、僕たちは予断なく被告を見つめられるだろうか。隣の嫌な奴を思い浮かべずに、仕事を奪ったあいつのことを思わずに、議論できるだろうか。自分の心の中にいる12人のうち、いったい何人が、10番と同じ意見になってしまうのか。
さいわい、劇中で同調するものはいなかった。1対11。ただし、そうだ、評決は全員一致でなければならないんだ。物語では、最終的に、被告が有罪か無罪かは、全員一致の結論に至る。だけど10番は結局、差別心に関してはその後なにも語らなまま舞台を去る。1対11のままだ。この裁判は、まだ終わってはいない。
……最後に、役者について。「舞台は役者のものだ」と誰かが言っていた。この舞台も役者のものだった。特に、10番を演じた小林エレキの怪演。狂気を感じた。2番を演じた江田由紀浩の繊細さと、4番、河野真也のエレガントなセリフ回しと巨体。2番と4番のやりとりは映画版にはなく、戯曲版の奥行きの深さを感じた。ラストに至っては、2人にほのかな友情というか同士感すら覚える(演出の妙だ)。貧民街出身の5番を演じた大川敬介は、若く粗野な肉体労働者風で、心の揺れ動きがたくみだった(映画版を越えてると思う)。実質主役の8番を演じた久保隆徳は、端正な演技でセリフも聞きやすく、個性派揃いの役者陣の中で堂々と主役を張っていた。
ちなみに客席は3つに分かれていて、入り口を入ってすぐ左側の客席は、8番の背中と後ろ頭をずっと見ていることになる(そのせいか、自分も8番のようにみんなを説得してる気にもなるのだけど)。もし8番の表情を見ていたい人は、左以外の客席に座ることをオススメします。
公演場所:コンカリーニョ
公演期間:2015年8月13日~8月23日
初出:演劇シーズン2015夏「ゲキカン!」
text by 島崎町