だれが三塚孝を殺したのか。
なんて書くと、おやっと思われるかもしれない。だって三塚は殺した側だ。殺人犯で3人殺した。yhs『しんじゃうおへや』の登場人物。だけど彼も殺される。死刑囚として。
あるミステリーの短編で、「だれが○○を殺したのか?」って話がある(○○には名前が入る)。実は○○は被害者ではなく加害者の名前で、そこのところがうまくミスリードされて、結局、加害者の○○は捕まって死刑になった、だから○○を殺したのは刑務所の死刑執行人だ! ってオチだ。
さてもう一度。だれが三塚孝を殺したのか。
死刑執行室には3つのボタンがあり、どれか1つが回路につながっている。3人の刑務官がボタンを押し、死刑は執行される。どれがつながっていたのかは、刑務官にはわからない。その1人が、三塚を殺したことになるんだろうか。それともボタンを押した3人の刑務官?
『しんじゃうおへや』のすぐれているところは、その刑務官の心にもスポットを当てたことだ。終盤、刑務官小栗と死刑囚三塚の、セリフの応酬がある。死刑囚と一般の人間の違いはなんなのか。違いはあるのか。はげしいやりとりが頂点に達し、刑務官が死刑囚に言い放つ。「お前は、人間だ!」その一言に、ふるえた。
劇中、教誨師は三塚の心を開かせることはできない。でも刑務官である小栗は、つかの間、三塚の心を開くことができた。なぜ小栗は、そこまでするのだろう。国家、法律というシステムの中で、人を殺す役目をになう刑務官が願うことは、死刑囚が、せめて人間の心を持ったまま死んでほしいということなのだろうか。
だけど本当にすごいのは刑務官のセリフのあとだ。未見の人はぜひ観てほしい。いったいyhsが、作・演出の南参が、なにを目指して、どこを見ているのか。演劇に限らず、笑いを作る人たちにときおり見られる、笑うことに対しての信頼(信奉といってもいい)に、正直、うらやましさを覚えた。
ところが初日のアフタートークで南参は、「迷い」という言葉を口にした。死刑という制度について迷う部分があって、その迷いを描いた、というようなことを言っていたと思う。自分の中の確たる思いを表現することよりも、迷いを表現することの方が難しい。それを成し遂げて、ここまでの舞台を作ることができたのは、すごい。
僕たちはその迷いの中に、なにを見るだろう。ボタンを押した刑務官が、三塚を殺したのだろうか。それとも、死刑執行命令書に署名した法務大臣なのか。あるいは死刑制度というシステム? 国家? 国家を構成する国民?
死刑執行室にボタンは3つあって、刑務官たちがそれを押す。でもボタンは見えないだけで、本当は1億数千万個あって、すべての人が1つずつ持っているのかもしれない。死刑執行の瞬間に押すのではなく、死刑制度がこの国にある以上、僕たちは今この瞬間も、ずっとボタンを押し続けているのだとしたら。
だれが三塚孝を殺したのか。
公演場所:コンカリーニョ
公演期間:2016年2月6日~2月13日
初出:演劇シーズン2016冬「ゲキカン!」
text by 島崎町