方言の真骨頂 小松台東『山笑う』

せりふに方言を使うと、その劇団にゆかりのある土地を想起させる、という効果がある。札幌でも、「札幌座」が多くの作品で北海道弁を多用しているが、毎回正直、「何だかダサイ」という印象しかない。一方、宮崎県出身の松本哲也が主宰する劇団「小松台東」の作品では、時に、ちょっと怒ったようにも聞こえる宮崎弁が、まだ訪れたことのない宮崎の地に連れて行ってくれる。

5月19~28日に、東京・三鷹の芸術文化センターで上演された「山笑う」は、宮崎から自分の母から離れたくて東京に出て行った妹と、宮崎に残って所帯を持った兄の話。その母が亡くなり、通夜と葬式に出るため、妹は数年ぶりに帰ってきたが、迎える兄とともに居心地が悪そう。その雰囲気が、せりふや立ち姿から感じられる。特に兄の宮崎弁は、宮崎弁を知らない人には「怒っているの?」と思ってしまうような突き放し感がある。

起承転結があるような物語ではない。近所の人や関係者が集まって通夜(葬式?)の食事会が行われている(火葬場?の)大広間と、同じ建物内にある控室を舞台に、兄と妹、兄の妻と子、妹が「彼氏だ」と言って連れてきた男、兄と妹の知人(山田百次が演じている)が出入りし、どうでもいい会話で紡がれる。兄は宮崎を離れた妹を責めているようで、妹も母から兄と比較されていたことをいまだに根に持っているよう。会話の「間」も舞台作品としては長く取っており、正直に告白すると、1時間40分の上演中に何度も記憶が飛びそうになった。

ラスト近く、ぶっきらぼうな兄が妹に「2人っきりになったな」と言う(せりふは違うかも)。その瞬間、この舞台はそのせりふを言うためだけに、膨大な時間とどうでもいいせりふを費やしていたのか、と気づいた。この物語を、「妹のこれまでの思いを推し量った兄が言いたかったのはそのことだけで、いつ言い出すかというタイミングを計っていた。でもちょっと兄は不器用だった」と変換すると、長い「間」もどうでもいい会話も納得がいく。そこで目が覚めた。

松本がつづる宮崎弁は、道産子にはわからない言葉もあったけれど、宮崎で日常を生きる人々を浮かび上がらせる。そう実感した舞台だった。

投稿者:ななし

text by ゲスト投稿

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