渇いているか 下鴨車窓『渇いた蜃気楼』

夫婦の日常の有り様を実に上手く描き出している作品だった。なるほど夫婦とはこのようなものよ、と感じた次第。

渇水によって断水している夏、男はポリタンク二つ分以上の水を日々、長い坂の下から木造アパートの2階まで運び上げているのである。部屋に戻れば、妻は激しいダイエット体操を終えて荒い息をしている。男が自転車を盗まれた話をしても、さして関心を払うでもない。自転車、という生活道具を失うことにも関心がないように見える。

…というのが作品の冒頭のシーンであり、高校時代の友人の登場というイベントを経て、ラストでは再び男が水を運び上げてくる場面からの展開がある。何があろうとなかろうと、男は変わらず水を運ぶのだし、そこに異議はまるでないのだ。女のほうにも。
作中には登場しないが、もしかしたら女のほうだって、ぶっきらぼうなセリフの後に「…ご飯。素麺でいいでしょ」などと言うのかもしれない。

物語の中で、夫婦はそれぞれ、自分の心の中の屈託についてふと相手に語ってみたりする。だが聞いているほうは「熱中症じゃない?」「よくあることよ」と軽いあしらいぶり。私はこのシーンが好きだ。夫婦が互いの心の揺らぎにどっぷりと寄り添っていたら、生活は成り立たない。個人の重大事が二人の重大事に発展しそうな気配にさえ目配りしておけば、夫婦は互いについて1から10まで関心を持つ必要はないし、そうしないほうが上手くいくだろう。

…が、観劇した翌日くらいになって気が付いたのだが、「そう、これが夫婦というもの」と私が感じたこの場面を、作演の田辺剛氏は「渇いている」と思って描いた可能性があるのだろうか!?

いやいやいや。男はごく当たり前のこととして水を運び続けている。女もそれを受け入れている。だから二人は、本当のところは渇いていない。渇きは、男が水を運ばなくなること、女が「そんなものはいらない、私が欲しいのはもっと違うものだ」という叫びを男に投げつけることで描かれるはずだ。

※以下、ネタバレがあります


 

この作品、夫婦をリアルに描いているのだが、リアルすぎてわかりにくい箇所がある。

まず、冒頭の「自転車を盗まれた」という会話がそうだ。男は盗難を、のんびりと、一人語りのように女に告げる。暑さ、肉体労働、それを軽減する生活道具の盗難。苛立っていいシーンなのに。気のいい男にしたってもう少し、という思いが募る。これすらも妻へのいたわりと解釈すればリアルではあるのだが、初見の客にはキャッチが不可能で入り込み難いように感じた。妻の体操に狂気があれば違うだろうか。

男は無職になりたて。なのに移住や旅行の話をするのは妻への気遣いで、頭はさして良くない…というか場当たり的だがいい人ではありそうだ。この場面で妻は腹痛でうずくまっているのだが、夫は妻をいたわっているつもりで目の前の妻の苦痛は見えていない。女性なら実感をもって「ああ、あるある」と感じるところだろう。

しかしこの腹痛のシーンも、リアルではあるのだがわかりにくいと感じた。私は喋っている男のほうを見ていたので、妻の演技が腹痛だということに気が付くのが遅れた、というのもあるだろう。ついでながら「なぜ腹痛が配置されているか」という意味もとりそびれた。

明示されはしないが、作中の夫婦の関係性に影を落としているのは、「妻の胎内から失われた子ども」である。
夫が妻の体調を気遣う、子どもの話題が出ると間が空く、などでそれは示されていくのだが、実は私は、冒頭の「妻がダイエット体操をする」という設定を深読みし過ぎた。

つまり、生殖年齢にある「妻」が太っていないのに運動する目的として「基礎体温を上げる」というものが含まれるからだ。あるいは「太っていると妊娠しにくい」でもいい。なので、私は最初、不妊が物語の背景かと思っていた。

だが、中盤のイベントでは「殺す」という話が登場するし、後半には「カラスの死体から目を上げると夫が見えた」という話が登場する。
これはてっきり、無職(貧乏)か、子どもや生命への嫌悪か、夫への愛の不足かの理由で堕胎した話だろう、でなければなんらかの行動が原因となっての流産、それが夫婦の傷として描かれている話なのでは…と思ったら、ラストで再びの妊娠を歓迎するようなセリフが、それにしては軽い扱いで登場する。…あれ、違った。

田辺氏によると、設定は「流産」なのだそうだ。とすると、作中での女の態度、狭く散らかりベビーグッズなどもない部屋の有様などからして、比較的早い時期での流産だったと想像できる。

女は、失われたものへの自分でもはっきりとしない想いを、しかし大きな屈託として抱えている。再びの妊娠を(うっすらと?)望んでいる様子もある。…そのようなときに20年以上前の男が強い意味を持つ、ということは、まずないだろう。終盤で女はふと遠い河原を見やるが、そこに何を見たいというのか。作品の旧題は『わたしの焦げた眼球/遠視』なのだが、目を焦がすほどの強さを放ったのは失意か欲望か憧れか、それとも漠然とした何かなのか、演出からははっきりとしない。

失われた胎児も、夫も、全て蜃気楼だったらいっそ良かった、と女は言う。あるいはそこに高校時代の記憶も含まれるのだろうか。昔の男も、さしてパッとした人生を送っている様子ではないのだし。
けれど、むしろその想いこそが、真夏の蜃気楼のようなものだろうと私は思う。あるいは「地元からも東京からも離れて職もなく暮らす夫婦」というものが蜃気楼のようなものかもしれない。彼らはこれから、子を産み育てることで、実体を伴っていくのかもしれない。

思うに、『渇いた蜃気楼』は男の物語なのだ。男にとって蜃気楼は、過去の友人の出現。日々、渇きに備えて不満なく水をくみ続けていても、ふと込み上げる「自分はやらかした、逃げた、他人を踏みつけて先に進んできた」という思い。
作中の男は、踏みつけて進んできたというよりは逃げ続けて生きているようには見える。が、だからこそ彼にとって蜃気楼は恐ろしく、水をくみ続ける日常の中で思考を鈍磨させる必要があるのかもしれない。

※登場人物は全員40歳以上の設定だが、子づくりが作品中のトーンで登場するのは女性が35歳くらい、上限いっぱいで37歳くらいまで、という気がしている。

※7月4日8:00一部改稿

 

2017年7月1日13時 シアターZOOにて観劇

text by 瞑想子

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。