ひねくれ者の深読み。─下鴨車窓『渇いた蜃気楼』

僕は、テレビの連ドラの初回を観逃して、2回目から観るはめになるのが割と嫌いではありません。

初回では、人物相関図が紹介されたり、生活背景や、過去のエピソードなども含め、視聴者が「神の目」を得るための情報が提供されたうえで、物語が動き出し始めるわけです。2回目から観ると、どれが(初回から見てる人にとっては)既知のはずの情報でどれが初出しなのか、今展開しているエピソードは初回とどう繋がっているのか、そもそも人物関係はどうなっているのか──欠落した「神の目」を、想像で補完して物語に追いつくために頭をフル回転させなければならない。これが割と楽しいんですね 笑。

──こう書くと、「かなりめんどくさい性格ですね」と言われてしまいそうですが。
(そりゃ僕だって、初回から見逃さずに観られればベストなんですよ。)
ひとつには、現在のテレビドラマがあまりにも親切になり過ぎているからでもあります。少しばかり情報を伏せられ(かつ、本当は初回が存在しているので、自分にとって不自然に情報が欠落していたとしても本来の作品自体が破綻しているわけではない)ていた方が想像する愉しみがある、という場合も多々あるのです。

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のっけから話が逸れていますが、『渇いた蜃気楼』は、札幌発の作品には少ない「観客の想像力を刺激する面白さ」がまず最大の特徴でした。作品の特徴というより、田辺さんの作劇の特徴と言うべきでしょうか。非常に論理的な方法論が背景にある作家さんなのだろうなという印象です。

人物関係やここに至る出来事の背景への想像(妄想)、そして先読みを愉しみながら行える作品はかなり稀です。そこまでの作風に出逢うこと自体が札幌では少ないし、あったとしても、整合性の不足や劇作の不完全さ、バランスの悪さで、作者が意図しないミスリードが起こることの方が多い。過去には、イトウワカナさんの書いた『言祝ぎ』くらいしか札幌では体験したことがないんじゃないかなあと。

田辺さんがもし札幌の作家さんだったとしたら、僕は欠かさず毎回観に行くだろうなと。

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実は、公演に先立ってZOOで開催された戯曲講座に参加させていただきました。
あくまで「体験」という意味合いで参加させていただいたのですが、その中でこの作品の戯曲の冒頭部分を教材として分解していくという作業があり、幕開けのほんの一部分(たぶん4P程度)をですが事前に読ませていただいていたので、かなり興味を持って観ました。

しかし、本読みでは演出を含めても4〜5分程度のシーンだと思っていたのですが、実際にはその倍近い尺があり、何度も読み込んでいたのに、観客としては全く物語に入っていけない。かなりとっつきの悪いスタートでした。
観客に冒頭から色々なことを想像させる準備のための間(ま)かな、とも今は思うのですが。観客の目(と頭)を信じるなら、もう少しテンポの早い展開でも良かったんじゃないかなあとも感じます。実際、主役の二人に興味が持てたのは、もう少し物語が回り出してからでした。
そして、3人目の登場人物が現われて以降は、物語が俄然動き始めます。いや正確に言うとストーリー自体に大きな展開はないのですが、3者の思考と行動が絡むことで、おそらく田辺脚本の特徴である「行間を想像させる余地」が発揮されやすくなっていくのでしょう。

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結論的にいうと、ほとんど物語は動いていない。人生の大きな転機となるような事も起こらないし、違う作者が書いたら、30〜40分程度の短編におさまってしまうような、ほんの束の間の物語だとも言えます。

「男が水を運ぶという行為」「盗まれた自転車が戻って来るという光明」「床に散乱する紙切れ」など、語られるべき事は多々あるかもなのですが、何をどこまで想像し受け取るかによって、物語の印象はかなり変わります。想像の余地が大きい分、それは観客の理解力、想像力そして、観客自身の経てきた人生によって左右される。

田辺さんが決めている裏設定はもちろんあるのでしょうが、それを明示しないということは、観客の想像に任せられているということであり、どれが正解ということでもないのでしょう。

夫婦間の「子供」に対する過去の出来事に対しても、序盤で妻が腹痛を起こす(ちょっとした)動作だけで色々考えさせられたのですが、たとえば

・妊娠→入籍→流産
・入籍→妊娠→流産
・妊娠→堕胎→入籍
・妊娠→流産→入籍

考えられる展開はいくつもあり、作中で具体的に語られない以上、物語の中から読み取るしか方法はなく、また、どう読み取るかによって、二人の現在の心理状態や関係性、そして物語の終盤での二人の想いは変わってきてしまいます。

(そして、あまりに考え過ぎたあげく僕は、終幕での妻の独白にあまり入り込めないでいたのでした。)

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人生には色々なことがあります。
3人の登場人物が過去に囚われるのも、学生時代の事を「昨日の事のように」話すのにも僕は違和感はありませんが、僕から見える風景は、爛(ただ)れてもいないし、歪んでもいないし、それほど渇いてもいない、ある日の朝に起きた夫婦間のすれ違いが夕方には収束する、その程度の小さな小さなエピソードのようにも見えました。

(学生時代の)キャンプの出来事。友人を助けようと差し伸べた手を離したのが故意だったのか──僕が気になったのはその事くらいで。キャンプの夜に友人と(現在の)妻の間にあった出来事がどうだとか、そんなことは人生の中で些末な出来事に見えてしまう。また、よしんばこの夫婦が離別してしまったとしても、僕にとってはそれほど心が動かないかなとか。(←いや、ここまで言ってしまうとこの物語自体が成立しないのですが。)

結局、(意識的にせよ漠然とにせよ)誰もが幸せになりたくて生きている。
40歳すぎ、という役の年齢設定からくる「人生」を考えたとき、幸せのモノサシがどこにあるのか。
少なくとも、この夫婦の幸せのモノサシがどこにあるのか、は、もう少し明示した方が盛り上がったのかな、とは思いました。

最後にひとつ、いちばん気になった事を。

舞台となったアパートの窓から見える河原に、キャンプをしている高校生は本当に「存在」していたのでしょうかね。

2017年7月1日(土)13:00〜 扇谷記念スタジオ・シアターZOOにて観劇

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下鴨車窓『渇いた蜃気楼』(『わたしの焦げた眼球/遠視』改題)
2017/7/1(土)〜2(日) 上演時間約1時間30分

とある小さな地方都市。その夏は例年にない酷暑でダムも干上がってしまうほどだった。町は給水車が走り道の人影もあまりないように感じられた。みんな家の中にこもってじっとしているんじゃないか、この暑さが去るのを祈って。そんな想像が働く。
 安アパートの角部屋に住む夫婦だ。実際にその夫は祈らんばかりの気持ちでいた。給水車が来る時間だ、近所のスーパーまでポリタンクを持っていかねば。持っていくのはまだしも、持って帰ることを考えると憂鬱になる。けれども水無しには生きていけないから、妻だってまだ諦めてはいないはずだから、もろもろ。

現代日本のある地方都市を舞台にした、淡々としたリアルな描写の中にも歪んだ不条理性を滲ます、酷暑の男女三人の物語。
※2014年の初演から9都市10会場を巡演して好評を得ているレパートリー作品

[脚本・演出]田辺剛
[出演]OFT(大沢めぐみ、藤原大介、高杉征司)

text by 九十八坊(orb)

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