【特別寄稿】図書館から100年後の劇場へ 

~「札幌演劇シーズンを知っていますか?」 展に思うこと、つれづれなるままに~ 寄稿者:本間 恵

 

 
戯曲を読む楽しみを知ったのは高校の時だ。演劇部で札幌演劇鑑賞会主催の舞台を見に行った。演目は劇団四季の「エクウス」、ピーター・シェーファーの翻訳劇。部員みんなで夢中になった。学校の踊り場でエクウスごっこをした。(いいのよ・・・・気にしないでも。よくあることだもの>ってセリフは当時の10代には、なかなか刺激的だった・・・)それで覚えた照明技法「分数サス」(>「エクウス」では裸体の下半身を隠すのに使われていた・・・)を、高文連の地区大会作品に取り入れたりした。シェーファーのほかの戯曲も探して読んだ。北大演劇研究会の「熱海殺人事件」を観に行ったのは短大の時だ。つかこうへいの名を胸に刻み、これまた戯曲を片っぱしから読了した。

長じて図書館で働くようになり、書庫で懐かしい「エクウス」に再会した。ほかにも高校生の自分が携わった久保栄の「火山灰地」があった。(音更町まで取材旅行に行ったっけ・・・。僭越ながらポスターの絵は私が描いた)旧市民会館の舞台に立ったメーテルリンクの「青い鳥」も、高校生初のミュージカルと話題になったライバル校の「おおきな木」の原作も、木冬社の初演から一年も経たないうちに、果敢にも高文連の舞台で清水邦夫の「楽屋」に挑戦した盟友女生徒達を思い出させる一冊も、ちゃあんと図書館の棚に並んでいた。そう、図書館とは、大切な記憶をストックしておく場所でもあるのだ。

 
「札幌演劇シーズン」は、2012年-冬から観ている。以来5年間、観客として劇場へ足を運びながら、図書館にこの記憶を残せたらいいのになぁと考えてきた。昨年、2017-冬のシーズンから、サイトの劇評ページ「ゲキカン」に書かせていただく機会を得、打ち上げの席で発言した。

「図書館に寄贈していただけたなら、上演台本は貴重な札幌の郷土資料になりますよ」と。

それが確か今年の2月のことだ。

5月1日、異動があり、郷土資料の担当になった。
5月25日、札幌演劇シーズンの事務局を担当されている三上さんからメールをいただいた。
図書館でコラボ展示をしませんか? というお話だった。えっ、いま、これからですかっ?! と、驚愕しつつ、
5月31日、とにかくやってみましょうということになった(!?)

というわけで「演劇シーズン2017-夏」とコラボした図書館の展示「札幌演劇シーズンを知っていますか?」は、準備期間が一カ月もないという、前代未聞の突貫作業の下で進められた。

 
とにかく上演台本を集め、上演作品の原作本を集め、公式パンフレットの抜けていた号を集め、ポスターを集め、関連新聞記事をスクラップし、上演写真を準備し、どうせならと、「台本?戯曲ってなんだ?」 「舞台?劇場ってどんな?」をキーワードに、図書館所蔵の岸田國士戯曲賞(演劇界の芥川賞?!)受賞作品も書庫から持ち出し、若手演出家コンクールの歴代受賞者一覧の道内関係者名にアンダーラインを引いて紹介した。演劇シーズンに触れた雑誌、紀要なども探し、寄贈依頼をし、登録し、装備し、展示した。

たとえばモーツァルトの楽譜を見て、現代に生きる私たちもプロアマによらず、演奏することができる。同様にシェィクスピアの戯曲が残されているからこそ、舞台化が実現でき、観劇もできる。

誰かが、遺したのだ。遺そうとして、遺したのだ。その意志があって、いまがある。

 
2012年からこれまでの新聞記事に「演劇シーズン」の文字を探しながら、同じ日に起こったさまざまな出来事にいちいち目がとまった。「あぁ、こんな事件があった・・・、あんな事件もあった・・・、あったのに・・・何も解決されず、うやむやにされている・・・」という思いに胸を塞がれて困った。演劇は現代を映す鏡だといわれている。ツイッターで、共謀罪を知らない演劇大学生を憂い、また教えない大人に憤る講師の呟きを見た。こんな時代に生きる表現者たちは、いったい何を、どう、舞台にのせようとするんだろう? そして、観客である私たちは、舞台上に何を見、何に感動し、何を後世に遺したいと思うのだろう? その意志とは?

 
『札幌演劇シーズンを知っていますか?』の展示コンセプトは、「図書館(台本)から、劇場(観劇)へ」だ。

読書も多様な世界にふれられる架空のドアのようなものだと思うが、舞台ではそこで実際に人が動く。呼吸している。図書館で利用者が読みとった戯曲の解釈とは違った解釈で役者は呼吸し、行動するかもしれない。あるいは観劇後の帰路、納得のいかないセリフをもう一度確かめたいと考えた演劇人が、図書館の原作のページの間から、違和感の根拠を発見して劇場へもどるかもしれないー。

読書体験にも観劇体験にも、共感が、違和感が、両方あっていい。いや、むしろ両方あるのが自然だと思う。同調ばかりでなく対話が生まれる環境が他人を許容し、生きやすい社会を創るんじゃないのかな。

自分が関わる仲間だけ、世界だけ・・・、あるいは、自分が生きている間さえよければいいという社会が豊かな社会だとはとても思えない。美しい国ってどんな国だ?

 
今回集めた上演台本は、縦書きあり横書きあり、左右開きあり、上下開きありとさまざまだった。縦書きなら右側を綴じる、と無意識に手を動かしていた自分に苦笑した。台本の綴じ方ひとつでさえ、こんなふうにさまざまある。願わくば演劇シーズンの再演にも、多種多様な台本が望まれますようにー。

この街に暮らす人たちが、図書館から劇場へ行く、劇場から図書館へ行く、そしてまた劇場へ向かうー。そんな体験から100年後、200年後に遺したい札幌の記憶が静かに蓄積され、保存されていくー。そして100年後のある日、図書館に遺されていた戯曲の中から新たな時代のヒントを得た誰かが興奮して仲間を集め、彼らの時代に問うために奔走するー。

そうなったら素敵だよなぁと、私は本気で夢見る図書館人です。

 

【参考】
・「エクウス」 ピーター・シェーファー/著 倉橋健/訳 テアトロ1976刊
・「熱海殺人事件」 つかこうへい/著 新潮社1978刊
・「火山灰地」 久保栄/著 『火山灰地』顕彰会1974刊
・「青い鳥」 モーリス・メーテルリンク/著 堀口大学/訳 新潮社(新潮文庫)1980刊
・「おおきな木」シェル・シルヴァスタイン/著 本田錦一郎/訳 篠崎書林1976刊
・「清水邦夫 1」 清水邦夫/著 早川書房(ハヤカワ演劇文庫4)2006刊 ※「楽屋」所収
 

寄稿者:本間 恵
図書館人にして観劇人

text by ゲスト投稿

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