難題に挑むということ yhs『忘れたいのに思い出せない』

投稿者:icuteachersband

後期高齢者の介護を取り巻く現実は語りつくせない。この作品で語られているよりつらい人もそうでない人もいるだろう。看取った後ですらその後の思い出を肯定的に振り返らない人もいるだろう。リアリティを武器にこの作品に感想をよせるものではない。ただ後期高齢者、寝たきりの認知症患者を描いた、この作品の手法について感想を述べさせていただきたい。

舞台セットは美しく、認知症のセンリの心象を表現したような、非現実的なつくり。センリのセリフからもそのことが伺えた。ともすれば舞台上の出来事が実はセンリの目線であったかのように。それは、この作品でも印象的なセリフをセンリが委ねられているからこそ、憶測される。そういう風にみると、ケアマネジャーが雑にセンリの左足を叩くのも、虚構もしくは想像上のものと許せるのかもしれないが、笑いに昇華するに至っていなかったように見えて、残念にならない。

どうして、牛乳瓶は空だったのか、ハイチュウはあったのに。どうしておかゆは空だったのか、プリンはあったのに。これは「おばあちゃん、さっき食べたでしょ」という認知症介護にありがちな、何度も食事を要求されることを描いたものだったのだろうか。やはりセンリの目線を大事にしていたのだろうか。セットが美しく、衣装も整えられていただけに、小道具のちょっとした違いが気になった。

センリの亡くなった夫の登場にしても、センリの心象を描く作品だったと思う。だからこそ、残念だったのはセンリが語りすぎていたことだ。周囲の期待通りの言葉が出てくる。それは希望を描いたものかもしれない。だけれど、希望はセンリを取り巻く家族の言葉で語られるべきではなかったのではないか。センリの言葉は、現実に生きる私たちにとっては声なき言葉だ。後期高齢者、それも認知症感謝の声なき言葉を、希望に変えていくのは、周りにいる人たちだ。センリ自らが語った言葉に救われていくのは、支えている家族を無力化しているようだった。

センリとトオルの、理想的なやりとりで作品は終わる。少なくても理想的に見えた。あのシーンを高齢者介護の悲哀のアンチテーゼとして読む人もいるのかもしれない。しかし理想的に見えたあの場面にいたるには、妊娠、シングルマザーとしての出産、偶然の(運命的な再会)、窃盗、ヘルパーとの親密化、交通事故、さまざまなきっかけを必要としている。ご都合主義と揶揄するのではない。センリはあれらの出来事がなければ語れなかった。だからこそ、センリには語らせない、ガンマとトオルがもっと語ることのできる、それぞれの思いがあったのではないかと思う。

忘れたいものはなんだったのか、思い出せないものはなんだったのか。それはセンリの語ることではなく、「早く死んでくれ」と言ってしまうガンマの語ることではないのだろうか。一人で子どもを産む決心を持ち、父親と介護を巡って対立するトオルの語ることではないのだろうか。まだまだ描きつくせないものがあふれ出てくる舞台だった。

この作品が描いたことに救われた人もいるだろう。だけれども語りつくせないことが多すぎて、難題に挑む難しさを感じずにいられなかった。介護それ自体が多くの人たちとって難題であるように、作品としてまとめ上げることも難題なのだと思う。yhsがこのテーマに挑戦し、感動を獲得されていることは素直にすごいことだと思う。

text by ゲスト投稿

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