老いと死を祝福するもの yhs『忘れたいのに思い出せない』

・札幌で創られる舞台作品としては傑出した完成度だと思う。脚本は社会性のあるテーマを扱ってねじれもズレもなく、演出の意図も明快で、役者は達者で熱量十分、かつそれぞれきちんとはまっている。

・庭が侵蝕した部屋という舞台セットがいい。認識の境界が愛したものと渾然となるというのは素敵で優しい描き方だ。老女センリの、というよりも創り手の思い入れがうかがえる。同様に、夫の訪れるシーンも好きだった。

・物語が動かない時間が長く、そこは退屈した。冒頭の、ベッドに横たわる老女と妊婦という組み合わせから、結末がどこに向かうかはある程度見えるので余計に。介護シーンや病態(というのだろうか…?)のリアルな描写は作者の思い入れなのだろうが、もう少しコンパクトでもいい気が。特にセンリの喋り方は、聞かせどころだけで良かった気も…。

・「母親の二回の離婚」というトオルのセリフはガンマと血のつながりがないことを示唆しているのだと思うが、その設定は必要だろうか。トオルの介護への態度は普通の孫娘としてもっともなレベルなので、終盤に「実は」と出す意味はあまり感じなかった。家族ならざる繋がりの中での円環、という形にしたかったのだろうか? であればもっと早くに出ささないと物語が膨らまない気が。
(それとも、単にトオルが出戻った設定なのか…?)

・老いと死が新たな生命の誕生によって祝福されるという円環は生命の本質であり、無条件で素敵だ。しかし家族の物語、老いと介護の問題の中での救いとして見せつけられると、生まざりし女としては感情移入しがたいものがある(笑)。
私の場合、近い身内には自分より若い人間はおらず、介護も金も泥棒もエセ宗教も、疲弊と残酷な判断も、悔恨も、喪失の痛みも、全て私一人のものになる可能性が高い。さらに言えば、家族が看るか施設かという問題で争える状態と、そのような関係性さえ羨ましい。
私が最後の一人として死ぬならば、異国人の介護士だろうが介護ロボットだろうが看てもらえるのならば御の字、ボロアパートで一人逝くのはともかくそこで液化する迷惑だけはかけたくないものだ、と思っている。

・そんなわけなので、私がこの作品の中で最も好きだったのはカヤモリだ。カラリと明るくドライでシュール。人生のリアルはとかく無慈悲かウエットに傾きがち、舞台では笑い飛ばしてしまいたい。

2017年7月25日19:30 コンカリーニョにて観劇

text by 瞑想子

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