生きて死ぬことは辛くて尊い。 yhs『忘れたいのに思い出せない』

札幌演劇シーズン2017-夏のトップバッター作品をコンカリーニョで。

認知症の老女(センリ)、シングルマザーになろうとしている年頃の娘(トオル)、その老齢の親と将来不安な娘の間に立つ男(ガンマ)で構成された家族の物語。

yhsの作品はいくつか観たことがあったが、今回はこれまでに観た中で最もテーマ、表現とも「直球ストレート」な作品に思えた。介護に疲弊する人々や介護職で働く人の待遇や労働環境、いじめやそれにトラウマを抱える若者、シングルマザーの不安など、様々な「ツラい現状」が表現された劇だった。

老女センリ役の福地美乃、すでに亡くなったセンリの夫役の小林エレキ、ケアマネージャー カヤモリ役の能登英輔、ヘルパー役の櫻井保一と、yhsの力のある役者たちの演技が素晴らしく、全体を通して、感情移入できる場面が多かった(私は劇に自分を重ねて楽しみたいタイプだ)。

小学生の頃に母方の祖母が亡くなった時のことを思い出し、自分が将来親の介護をすることになったらどうなる?と自分を重ね、さらに遠い将来、自分が介護される時が来たらどうする? と想像は広がって、最終的には自分がどう死にたいか? と思いを巡らせた。

その想像の内容はこの劇と同様に、現実的で悲観的な要素が多くなってしまったが、少なくとも私は、これから直面するであろう種々の試練に対して、「それでもささやかな幸せはどこかに見出せるかもしれない」という希望を、物語を通じて受け取ることができた。

家族同士は主従関係ではないはずで、家族全体としてお互いに相手の「生」を肯定できれば、繰り返す生活はツラくても、幸せは見出せるのではないか。

そんな思いが観劇後、心に残った作品だった。

欲をいえば、最後のセリフはユーモアを交えての作家の照れ隠し? なのか、yhs節なのか、ユーモアはカヤモリがしっかり担保してくれていたわけだし、テーマをここまでストレートに描くのであれば、ラストもガチで泣かせて欲しかったなあ、というのは完全に個人的な好みの話。

ところで彼ら家族はその後、どうなったのだろう? 生まれた赤ん坊がふらふらと歩けるようになった頃、センリおばあちゃんはついに亡くなって、ガンマは以前同様に大学で(現実から逃避するように)忙しく働く。トオルは行政からひとり親家庭のサポートを受けながらパートと子育てに大忙し。あるいは別れたガンマの元妻(トオルのお母さん)がたまに手伝いに来て、ガンマとも多少コミュニケーションを持つようになったりするだろうか(それはないか)。

やはりそこにも微妙な「ツラい現状」の空気は流れつつも、幼子という唯一の光をよりどころに家族の生活は続いていくのではないか。そして将来、今度はガンマが高齢者となり、トオルがこの物語のガンマよろしく、介護の問題に直面するのか。その時にまた新しい命が一筋の光として現れるのか。人生は続いて、無条件に終わる。ゆえに、新しい命は「希望」で、だから尊いはずなのだ。ということを改めて考えた。

たまたま隣の席に座っていた大柄な男性(180cm超で恰幅も良い)が、物語の終盤で鼻をすすっていた。ふと見るとハンドタオルで涙を拭いながら号泣していた。意外! と思いつつも、ああ、もしかして彼にも子供がいて、物語に自分を重ねているのだろうか。と思うと、彼とも同志のような感覚になり、思わず握手したくなった(しなかったが)。

泣きも笑いも好みが分かれるものなので、この作品が3,000円のチケット代の価値があるかどうかはわからない。わからないが、出演者の一人、櫻井保一さんが、公演が始まる前にこんなブログを書いていた。実際にどうだったかはこれまたわからないが、櫻井氏だけでなく出演者全員、おそらくは制作スタッフも、観客を「演劇でぶん殴る」ために真剣に取り組んでいたことは事実だったと思う。なので、演劇の入り口として、演劇シーズンのトップバッターとして、この作品は十分にふさわしいものだったのではないかと思っている。

2017年7月25日19:30 コンカリーニョにて

text by POLPO

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