[観劇雑感]『わたし -THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY-』を見て思い出した5冊

投稿者:島崎 町

 
intro『わたし -THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY-』を観劇してから5冊に触れるもよし。5冊のどれかを知っていて(興味があって)、劇を観ようと思ってもよし、という企画です。
 
 

『タイコたたきの夢』/作・画:ライナー・チムニク/パロル舎

ある日1人の男がタイコたたいて叫んだ「ゆこう どこかにあるはずだ もっとよいくに よいくらし!」。男はそのまま姿を消してしまうが、言葉は残った。その日から、1人また1人とタイコをたたく人が増え、町中にあふれる。ついに彼らは、どこかにあるよい暮らしを求めて町を出る。道中、タイコたたきの数はどんどん増えて巨大な群れとなり、ついには……。

introの意欲作『わたし』は、「わたし」という(おそらく)1人の女の子を32人が同時に演じる。行列となり群れとなり、あるいはちりぢりにカオス状態になる。そんな姿を見て僕はまっさきに『タイコたたきの夢』を思い出した。絵本と短いお話の中間みたいな作品で、チムニクが描いた膨大な数のタイコたたきの群れは迫力がある。
 
 
『百年の孤独』/G・ガルシア=マルケス/新潮社

『わたし』は様々な役者が「わたし」を演じ、どの「わたし」も「わたし」なのだけど、違う役者が同じ「わたし」を演じたりするので、違いが生まれる。その誤差が、幾重にも塗り重ねられた油絵のように多層的な「わたし」像を描きだす。

思い出したのは『百年の孤独』。南米のマコンドという村の百年間の歴史で、村をおさめる一族の長が、初代はホセ・アルカディオ・ブエンディア、その子がホセ・アルカディオ、さらにその子がアルカディオで、そのまた子がホセ・アルカディオ・セグンド……という風に意図的に同じような名でつづられ、壮大なマジックリアリズム世界の中で人の境目がなくなり、まるで同一人物であるかのように錯覚しはじめる。村と人と歴史がごたまぜに混在して1つの物語となる大傑作。
 
 
『顔をなくした女 <わたし>探しの精神病理』/大平健/岩波現代文庫

『わたし』は「わたし」とはなにかを描いた劇とも言える。そこで思い出すのが、『顔をなくした女』。精神科医がつづる実際の患者の症例集で、様々な患者が彼のもとにやって来る。表題となっている、自分の顔をなくしてしまった女性や、多重人格の患者、高名な宗教家の生まれ変わりという人物や、分裂症のような男性……。読んでいると、どの人も、自分の気持ちや心、精神を、自分の中になんとかとどめておきたいような、そんな風に見える。このままだと「わたし」が「わたし」の外に行ってしまうような、そんな感じだ。
 
 
『ファイト・クラブ』/チャック・パラニューク/ハヤカワ文庫

『わたし』で僕が一番面白かったのは、数十人が1人の体の各部位・器官となる場面。「わたし」がお腹をおさえ痛がるが、数十人たちは全然平気。「わたし」は大丈夫、と言っている。しかし気がつけば1人舞台に倒れている「わたし」がいた。その部位こそが痛みの原因だったのだ。わかりやすくて面白い。こういうわかりやすさでどんどん描いてもよかったのでは?(と思うけど、introの作風とは違うのだろう)

思い出したのは、『ファイト・クラブ』で主人公が家の地下で見つけた本。それは体の各部位の1人称小説で、「わたしはジャックの脳の延髄です。心臓、血液、呼吸をつかさどってます」「わたしはジルの乳首です」などと書かれてる。好きな映画の奇妙な一場面(ここでは原作小説をあげておきます)。
 
 
『ロコス亭(奇人たちの情景)』/フェリペ・アルファウ/創元ライブラリ

『わたし』の原案となった太宰治の『女生徒』は、1人の女生徒の内面を自由奔放かつ繊細に描いた短編だ。思考があっちこっちに行っても読者がついていけるのは、女生徒の内面から絶対に逸脱しないことと、主人公の女生徒自身に魅力があって、読者は早い段階でそこをとっかかりにできるからだ。

『わたし』は大勢の「わたし」が1人の「わたし」を構成してるがために、「わたし」個人としての像が見えにくい。もしかしたら明確なセンターとして、固定された「わたし」を置いてもいいのではないかと思った(それは特に序盤。中盤以降は固定された「わたし」が出てくるし、終盤の「わたし」は、演じたのしろゆう子の力もありグッと引きこまれた)。

この感覚は、『ロコス亭』を読んだときに似ていた。『ロコス亭』は変わった本で、1話目に出てきた人が次の話では同じ名前なのに別の人間なのだ。よく言えばスターシステムで、手塚治虫のマンガで同じキャラがほかの作品で別のキャラとして出てくるみたいな(鼻の長いキャラとかサングラスのあいつとかね)。しかし手塚マンガは絵で直感的にわかるし、なにより主役級じゃない。正直『ロコス亭』を読んで僕は混乱して面白がれなかった苦い思い出がある。

『わたし』はストーリーがほぼなくて(あるのだろうけど、ちゃんと明確にわからせようとしてない)、筋を追えばそれで面白さの何割かは保証されるという作品じゃない。だとしたらもっと導入で引きこむ工夫があってもいいのではないかと僕は思った。

『わたし』は大変な意欲作でかなり楽しめる部分もあったので、また再演の機会もあると思う。さらによいものになることを願いつつ、以上5冊、観劇のおともに。
 
 
2017年8月16日(水)19時30分〜20時50分観劇(初日)。コンカリーニョ。

text by 島崎町

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