作家性を観に行こう! intro『わたし−THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY−』

札幌演劇シーズン2017-夏-のオオトリを飾るのは、イトウワカナのintro『わたし−THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY−』。好き嫌いというか、わかんないとか、感じるとか色々な感想のでそうな作品ですが、僕は彼女らしい作家性を面白く観ました。お芝居にストーリーテリングとか、圧倒的な本の力とか、渾身の役者力とかをいつも期待して劇場に足を運ぶわけですが、そこを期待すると多分わけがわからなくなるかもしれません。この作品には、テーマとか明確なストーリーラインはありません。ぼんやりと3つくらいのパッセージはありますが、そこをフレームアップしたいわけではないでしょう。多分、観客に思い当りのある平易なエピソードを切羽に次のクレッシェンドをつくりたいのだと感じました。すごいなぁー。30人以上の役者たちを動かすだけでも大したものです。演出家が色んなことをちゃんとジャッジしていることが伝わってきます。もちろん、作家のやりたいこと、演出のやりたいことも。イトウワカナという作家性、良い意味でのエゴイズムを楽しむことができるし、とても魅力的なアトラクションとして観せてくれました。
札幌の演劇シーンには、いろんなタイプの作・演出家がいますが、ちょっと似ているヒトが思いつかないという意味で異端児っぽいタイプですが、ちゃんと納得させてくれる多彩な演出術を持っているのが彼女の演劇的文体の良さでしょう。集客力は分かりませんが、introの新作を楽しみにしているファンも多いと思うし、イトウワカナとやりたいと思っている役者や演劇人も少なくないことでしょう。d-sapのインタビューでも語られていることですが、お芝居のつくりが楽曲のつくり方によく似ています。Aのコード進行があって、Bの進行コードがあって、もう一度Aの進行コードが現れるのですが、それはA’だよね、という感じかな。「演劇で音楽をつくりたい」とイトウは話していましたが、なるほどなぁーと思いました。

「走れメロス」に収録されている太宰治の「女学生」が原案になった経緯は省きますが、「女学生」の冒頭の一文、「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い」を「ぎゃっと目が覚めると私はもう死んでいました」と自分の劇世界に変換した時点で、作家は勝った、と思えるのです。全編に漂う明るい死のイメージや、犬、両親(劇では母親)との微妙な距離感というモチーフが、原作本からキッチュでポップに拾われています。わたしを「集団行動」のように仕立てて、ひとつにしたり、分裂したり、一個の細胞のようにポツンとしたり。振付の東海林靖志はよかったですね。もう少し、役者たちの身体にキレがあればと思いましたが、これはないものねだりでしょう。いずれにしても、一番上背のあるのしろゆう子を筆頭に、男優含めて身体性がバラバラな役者を30人以上揃えた効果がよく表れていました。

初日だったからかな、と思うのですが、終幕近くの犬おじさん(宮沢りえ蔵)の台詞がまったく聞こえませんでした。一番残念だったのは、ラストの台詞尻も聞こえなかったことです。音楽の低音部がとてもパワフルでコンカリの椅子なのでグラグラ揺らすほどなのですが、音圧にかきけされてしまいました。これはなんとかして欲しいです。あと、腑に落ちなかった台詞がありました。ネグレクトのようなエピソードの終わりの、大き子(のしろゆう子)の独白。「やっぱり、わたしには赤ちゃんは育てられない」。ちょっと白けちゃいました。そこだけ劇が素になってしまって、突然リアルがむき出しになった感じがありました。そんな話ししてましたっけか。

わたしは約60兆個の細胞でできていて、日々新陳代謝して、わたしネオな細胞に置き換えられていきます。きょうがきのうの続きではなく、あすがきょうの続きではないように、わたしは気がつかないうちに、新しいわたしに上書きされているのです。そんな「いまのわたし」を脱構築して魅せたイトウワカナワールド。ちょっぴりですが、イケてます。癖になる、いやいや依存性になっちゃうかも!

8/17(木)初日 コンカリーニョ

text by しのぴー

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