時代性を感じる不気味なシュール。intro『わたし−THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY−』

これは回転する「わたし」の物語。朝と(昼と)夜の日常を、感覚としての死と再生とを、生と死の狭間で繰り返す「わたし」。
舞台美術のイメージは、カセットテープではなく洗濯機だろう。私は洗濯機の中にいるようにぐるぐる振り回されて、浮いたり沈んだり、だけど泡のように軽やかに弾けて光ってみせたり、しているのだろうか? それとも泡のように消えていく、ということだろうか。

「あれ、今は札幌の演劇もこんなに面白いんだ」と思った最初の作品が、2013年の『わたし〜』の初演だったような気がする。「ギャッと目覚めて〜」からのリズミカルな演出、言葉と間合いの面白さ、概ねポップでカジュアルな身体表現、サブカルチャーっぽい世界観。エピソードはあれどストーリーは明瞭ではなく、心情のモノローグを口々につないで語り続け、身体の集団性でたたみ掛けていく。当時は単純に、手法の新鮮さを楽しんだ。イメージは明るかった。

しかし今回は…不気味さ・暗さを強く感じた。違う顔・違う体格(性別)の大人数の「わたし」が、同じ服を着て同じ動作をするという異様。ちょっと違う動作にちょっと違うセリフを言ってみたってごまかされない。同じだ。照明も怖さを煽ってくる。妙に明るく振る舞うのも恐ろしい。
繰り返されるフレーズの執拗さは、リズムと身体表現の軽さを超えたものを訴えかけてくる。

初演と何が違うといえば、「わたし」の人数が21名から32名に増えたこと(当初からこの人数を出したかったそう)。プラス、役者の身体性が、初演よりも普通に感じられる。舞台を埋めつくす普通の身体が集団でポップな動きをする不気味、ということか(実際、影子のソーセージと卵の夢からのコンテンポラリーな表現では、不気味さは感じなかった。このシーンと育児放棄エピソードが、私の集中力が欠けた場面。身体の強度…)。
キャラクター性も初演よりは薄く感じられたが、それも影響するのか。
あるいは、今現在の私が、どよめいて似たような振る舞いをする集団を不気味だと思っているからなのか…?

「わたし」とは何か、の分解。分裂する私。解離する私。それもこれも私。過ぎ去った「いま」と今の「いま」の「わたし」は異なる「わたし」。喜びも辛さも常に流れていき、「いま」の私は今の面白さの中に生きる。未来に期待して痛みを負うことは、もうしない。そうして生き延びようとする。
「わたし」は成長過程で何度も死に、影になり、時によって新しい「わたし」に再生され、それを繰り返しつつ、いずれ訪れる死に向かって倦怠の日常を疾走する。

『わたし〜』に描かれているのは、とても現代的なテーマだ。
個として生きる(小さな、しかしだからこそ逃れがたく辛い)痛みと倦怠、孤のままで日々を生きていかざるを得ない同時代の人たちが、励まされるような作品…、なのだろうと思う。

「わたしはわたし、死ぬまで生きていく」。ラストのセリフは力強い生命賛歌だ。なのに私には響かないのはなぜだろう? 

暗さに感応した眼には、フィナーレに向かう明るさはシュールだ。列をなし、輪をつくり、走ってジャンプして走ってジャンプして…、「ここで走って笑顔でジャンプ」を「わたし」自身に強要されている「わたしたち」。明るい炸裂を表現しなくては先に進めないのだ。それが今という時代の一面なのだ。
「なんちて」と軽みを添えみせる創り手の目をマジマジと覗き込んだら、そこには空虚が広がっているのではないか…?

さまざまなことを考えさせられ、楽しめた作品だった。

私自身もまた、循環する日常で作られた生を走り続けている。しかし私は明るい炸裂の表現を必要としない。むしろそちらのほうが辛い。いつの間にか、炸裂してみせずに生きていけるだけの諦念を持ってしまった。2013年の初演からの時間は、私にはそのようなものだったのだろう。私の諦念(と、その上に描く希望)は、イトウワカナの描く「それでも生きていく」という感覚と、近くて遠い関係にある。
 
 
※暗さに強く感応したのは、直近で観た芝居がマームとジプシー『夜、さよなら  夜が明けないまま、朝 Kと真夜中のほとりで』 『クラゲノココロ  モモノパノラマ  ヒダリメノヒダ』という超級の暗さを描いた作品だった影響を引きずっているのかもしれない
 
 
2017年8月22日19時30分 コンカリーニョにて観劇

text by 瞑想子

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