見えなかったもの MAM『父と暮らせば』

不思議な気分になった。

とても上手に作られた舞台だったのだ。登場するのは娘と父のみ。私が観たのはダブルキャストの札幌キャストのほうで、娘を高橋海妃、父を松橋克巳が演じた。娘は戦中の若い女性らしい小走りな動きも似つかわしく、清楚で愛らしい印象。膨大な台詞をきっちりものにして初々しく演じる。父役は札幌のベテラン俳優とあって危なげない。脚本は井上ひさしの名作。

説明されていることも、起こっているできごとも、よくわかった。けれど私の心はほとんど動かなかったのだ。なるほど、それで? という感じ。客席は終始よく集中していたし、後半からはすすり泣きも聞こえたというのに。

原爆の悲惨と生き残りの罪悪感(サバイバーズ・ギルト)を語り、被曝後の人生を生きていこうという姿(生き延び、生み継ぎ語り継ぐ生の肯定)を描いた脚本。頭は理解し賛同するのに心が動かない、というのは我ながら残念だ。いや、娘が地蔵の首を抱いて叫ぶシーンはぐっときたけれども。「最後の親孝行だ」というセリフも。阪神淡路や東日本の震災の手記などを思い出した。

父がどういう存在なのか、というのは饅頭の場面でわかった。その前後だったか、父はちゃぶ台の周囲で中腰になって話したりしていて、なぜそんな動きをするのか?と違和感があった。 なるほど浮遊する存在としての演出なのか。だがしっくりこない。柱磨きも。また、滑稽なセリフや動きは緩急をつくり悲喜の哀感をみせるためのものと思うが、ほとんど効いてなかったように思う。

ラストで思ったのは、結局のところ父の不在が見えないから私の心に響かないのかも、ということ。恐ろしい悲劇を体験し、心に諸々の大きなトラウマと罪悪感を抱え、身体への影響も案じられる中、家族を失い一人で、でも立派に働いて、地域社会の中でできることにも前向きに取り組んで生きている娘。しかし結婚となると別なのだ。だからこそ娘の葛藤は重く切なく、父の言葉は深く温かいのだ。
物語はいってみれば娘の心の中での対話なわけで、それを招来している孤独がふと漂う演出であれば、哀感が私の心を動かしたのではないか。

劇場からの帰り道、さまざまな劇団の上演で10回以上は『父と暮らせば』観ているという方にそんな話をしたら、「昨年のMAM『父と暮らせば』の東京キャストでは、その不在感が見える部分が何カ所かあった。脚本にはない演出だがそれがとてもいいと思った」とのこと。はて、今回はあえてそこを演出しなかったのか、あるいは演出ではなく役者力が生んだ不在感だったのか。
確かめるためにも東京キャストの上演を観たいところだが、その入場料分はもう木戸銭箱に入れてきてしまった。なので、大人しく観た方の感想を待ちたいと思う。
 
 
蛇足ながら。
札幌で活動を続けてきた方の演出だったら、このような感想をわざわざ書くことはなかった気がする。札幌作品と思えば十分以上に素晴らしい出来だ。
 
 
○20017年11月11日19時30分、シアターZOOにて観劇
※11/14 一部改訂
 
==========
さらに余談。
当たり前だが、井上ひさしの脚本はすごいなぁ、と思った。原爆というものの情報、投下当時の様子、被害の悲惨、被爆者の様々な苦しみの説明を入れつつ、それらは物語の必然として登場してくるのだ。

先月、情報をたくさん盛り込んだ札幌制作の演劇作品を観た。よく勉強したなぁ、とは感じたが、あまりに多岐にわたる情報が全て断片的に登場するので、「そうですか、いろいろあるんですね」としか言いようのない気持ちになった。物語は情報で分断されて散漫になり、心には訴えない。その方向でのナンセンスのドタバタなのかと思えば、ラストでは感動的な盛り上げを狙っているように見える。事故の痛ましさを語りながら物語中では滑稽に扱っている点も、私には合わなかった。修正しての再演と聞いて期待していただけに、残念だった。冒頭のテンポや主役の演技は良かったけれども。

text by 瞑想子

SNSでもご購読できます。