挑戦を歓迎する words of hearts 『アドルフの主治医』

なぜ完全なフィクションとして創作しなかったのだろう。

上司の命令で、国を率いる権力者の子どもを人工的に作ることになった男。そのために収容所で非道な人体実験と虐殺を行い、死の天使と呼ばれた男。しかし、家庭では優しい夫でよき義兄。

最初に研究をためらった理由は、作品でははっきりと表現されていなかったと思う(生命への冒とくを感じたからか。単に権力者には内緒でその子孫づくりをするからか…ではないと思うが)。しかし「私は変わったのだろうか」と自問自答しつつ研究に着手して、やがて変わったかどうかなど意識せぬほど研究にのめり込み、成果を求めて非人道的な行いに突っ走る…。
 
 
というのが、本作で描かれていたヨーゼフ・メンゲレ像。まず狂気的な行いをする人間像として違和感がある、という点はマサコさんの感想に書いてあるので省略する。

「フィクションなので史実とは違う、というのはかまわない(けど、観客はそれぞれの知識や先入観に基づいていろいろ思いますよ)」ということについてはやすみんの感想に書いてある。
さらに加えて、私は「それは何のためか」という点を作者に問いたく思うのだ。

昨年上演されたwords of hearts『ニュートンの触媒』は、一般人にはほとんど無名の研究者に光を当てたものだった。ナイロン発明者のウォーレス・カロザースを知っただけでも観客としての満足感があった。新しい発見の喜びだ。

しかしヨーゼフ・メンゲレは世界的な有名人だ。あらゆる角度から研究されている。「歴史に描かれていない人間像」だとて大量に書かれているし、さらに描くにしても人間造形の根幹部分、あるいは歴史的に事実とされていることについて、払わねばならない注意は膨大だ。あまりに史実から離れれば「メンゲレではない」と言われてもしかたがない。

だから、「そのことで作者が描きたいものは何か」のほうを大事にしてほしいと、私は思う。
書きたいことが「非道な行いをした人間も『人間』だったのだ」という点ならば、いっそ作中では元ネタがメンゲレという点を匂わせるだけで、フィクションとして自由に、自身が思う「人間とはこのようなものだ」ということを書き切ればいいのだ。そのほうが深みのある作品になるだろう。

ところで、私が本作で「あ、戯曲家はここを言いたいんだな」と思ったのは、前出の「非道な行いをした人間も〜」ではなく、「認められるかどうかわからない暗闇の中で成功を渇望する狂気(の中で道を誤っていく)」という点だった。

その他、細かい点についてはマサコさんとやすみんが書いているので省略するが、1点だけ。『ニュートンの触媒』との類似を指摘したのは私だが、それを悪いこととは思っていない。一つの手法・テーマが完成に至るまでチャレンジし続けるのは大事だ。ただ、本人がそのことに気が付いているかどうかは気にかかる。
 
 
最後に。
『アドルフの主治医』は戯曲だけではなく舞台全体として、大変真面目に、真摯に取り組んでいることが感じられる作品だった。困難なものへのチャレンジは創作の姿勢として好感が持てるし、作風も、長いコントのような作品が主流化しつつある札幌演劇においては貴重だと思う。この作品がブレイクスルーになった役者もいるのではないかとも想像する。

私はこの作品と行われた挑戦とを、一人の札幌観劇人として歓迎する。
words of heartsが次の作品で、ガツンと重い一発を喰らわせてくれることを楽しみにしている。
 
 
2017年11月12日 18:00 パトスにて観劇

text by 瞑想子

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