とある家族の物語 座・れら『アンネの日記』

※感想はこちらの記事に書きました。
ここではさらに補足として。
 
 
『アンネの日記』といえば、ナチス政権下で虐げられたユダヤの少女の物語、というイメージが強い。けれど座・れらの舞台『アンネの日記』は、隠れ家に到着してから出て行くまでの、2家族+1の小さな社会での人間関係の物語として単純に楽しむこともできる作品だった。

家族という「社会」での関係性の妙。親子にも相性がある。子に邪険にされれば、甘えとわかっていても親だって傷つく。姉が従順で真面目なら、妹はことさら気ままに振る舞って家庭内にポジションを作ったりもする。そんな普通の家族であるフランク夫妻とアンネ姉妹にファンダーン夫妻と息子のペーター、デュッセル氏が加わって、「社会」はちょっと広がる。それぞれに個性的な人間像、その関係性と変化が実に丁寧に描かれていて面白い。脚本(ハケット夫妻)の良さもあるが、ここまできちんと見えるのは演出(鈴木喜三夫)の力だろう。それぞれの性格と行動がきちんとリンクしていて違和感がない。

もちろん、前提には「隠れ住まねば生き延びられない」という特殊な事情があって、作品に緊張感を与えている。145分(休憩込み)と長尺だが気にならなかった。強いていえば最後の日はやや間延びを感じ、ラストのオットーのシーンは蛇足のような。長々と説明せず終わったほうが余韻があって、無残の印象が強い気がする。そして、私はアンネを普通の少女として描いていることに好感を持ったのだが、エピローグ部分では神聖視しているような印象を持った。ちょっと残念。

小さな私の世界を描いた作品ばかり、と評論家が嘆いていたのはそう遠い昔ではない。民主政治とはなんぞや、と思うようなニュースが続く今、この作品は私たちの明日かもしれない緊迫感を持っている。
しかし、私には興味深い時代性(いま演じる意味)が、もしかしたら、「アンネの日記」を本作で初めて知る若い世代にはわからないのかもしれない、とも思う。

ナチスが独裁に至った経緯と結果を知っているかどうか、アウシュビッツの一語から眼鏡の山の写真やガス室、『夜と霧』の絶望と希望を連想できるかどうか、といったことで作品の見え方は違ってくるだろう。舞台では、観客が隠れ家の外の惨状を知っていることを前提としており、詳しい描写は登場しない。
とはいえ、説明を加えることが必要とは思わない。そんなことをすれば作品世界が壊れてしまうだろう。

高校生の頃に読んだ『アンネの日記』は、若い私には退屈に思えた。いい歳になったいま舞台を観て、小さな社会の長であるオットー、隠れ家の人々の命を繫いでいるクラーレルとミープ、彼らが耐え支えているものを思い、胸が痛んだ。歳を重ねればさらに見えてくるものがあるだろうか。
 
 
2017年11月4日 11時 やまびこ座にて観劇

text by 瞑想子

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