破綻のままの完成 劇団コヨーテ『路上ヨリ愛ヲ込メテ』

概ね、わけがわからない作品だった(笑)。

一応、いくつかのストーリーラインは見える。一つは、片足が不自由、太っていて汚らしい(?)という設定の久遠茶太郎(亀井健)の物語。スーパーで肉のパック詰めの仕事(パート?)をし、人に何を言われてもヘラヘラと楽しそうに生きている…ところからの、激しい生への目覚め、のような展開。
また一つは清川架子(ナガムツ)の幼い頃の犯罪と新興宗教(の俗っぽさ、神の誕生のサイクル?)から描いた、神なき人生における人生哲学(信念や幸福)の希求の苦しみ…みたいなもの。

その他いろいろあるのだが、書いても仕方なかろう。物語は明瞭ではない。ストーリーは醜悪だったり滑稽だったりする妙な場面でしばしば分断され、次には予想外の場面が登場したりする。ちなみに強烈に覚えている妙な場面は「鶏むね肉(男)と豚ばら肉(女)が互いを求めて絡み合いもだえる」というものだ(笑)。いや、場面の意味自体はわかるのだけどね。

この不明瞭は「わざと」というか、「破綻させた状態で伝えたい」というのが作演の亀井健の欲望なのだろうと感じる。だがまぁ、「わかる」と「わからない」のバランスで言えば、もう少し「わかる」が多いほうが観劇後の充足に繋がるように思う。その点でいえば2014年に上演されたcoyote『愛の顛末』のバランスは素敵だった(2016年の再演でなく)。元ネタがあると逸脱していても世界観の共有は容易い、ということもあったのかもしれないが、美しい破綻の構成だった。

しかし『路上ヨリ愛ヲ込メテ』は、破綻でわけがわからないのだが、つまらなくはないのだ。それぞれの場面が力を持って立ち上がっているため、バラバラのパーツがどこに行き着くかをラストまで集中して追い続けることができた。

観ながら、私は役者やスタッフに心の底から感心していた。意味深だが繋がりの破壊されたセリフと物語を、全員が完全に理解しているわけではないだろう。それでも作演家が作ろうとしている世界を信じて、一心に場面に意味を引き下ろそうとしている。だからこそ作品が独特の雰囲気を放って成立しているように見える。…つまりこれはある種の「演劇的」な挑戦なのだろう。たぶん。

果たしてちりばめられたパーツは終盤で大回収されるのだが、ここがスッキリとわかった、とはならなかった。ラインが混ざりすぎてごちゃごちゃしている印象。冒頭の場面との繋がりもキレイに受け取れなかった。

だがこの作品は、これでいいのかもしれない。破綻を完成させた作品、ということで(笑)。愛の犯罪とピュアな性愛、ナルシスティックなハードボイルド。俺は生きていくんだ、という叫び。いかにも亀井健らしい作品だ。
しかし、これは作り手が「これでいいのだ」と思った途端に失われる蜃気楼のような完成であるようにも思う。

個人的には、役者・亀井健の身体が自身の作品世界を支え得るところに戻っているのを見て、満足している。
 
 
2017年11月20日19時30分 BLOCHにて観劇

text by 瞑想子

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