イヨネスコの『授業』を連想したのだけど、「それを言うならベケットの『ゴドーを待ちながら』でしょ」と訂正された。確かに、認識と存在を扱っているという点と、ループ構造でいうなら『ゴドー〜』なのだろう。でも狭い空間で男女が不可思議な会話と続ける…という点では『授業』と共通する。まぁ、要するに不条理演劇だ。
「戦象は、暴走したときのために急所に釘を打ち込めるようにしてある」という話が早々に登場する。そして1名は、首から大きな釘をぶら下げている。机の上には木槌(金槌?)。なるほど打ち込むのだな、ということはすぐにわかるのだが、そこまでがとにかく長い。「私は誰」「ここはどこ」「そしてどこに行くのか」を問う「人役」、「いやまぁとにかくこれに答えてよ」と謎めいた会話を進める「象役」。1回目の「釘打ち」で、象が人間に釘を打つと「最初からやり直し」になることがわかる。そして次の「釘打ち」まで、また禅問答めいた会話が長々と続く。ここはもう少しコンパクトにしていただけないものか…と願いつつ観た。わからなさを楽しむ芝居とわかっていても、集中を保つことができなかった。
場所は「屋根裏部屋」としかわからないのだが、人役が何かを想像する度に、階下に地獄が出現したり、窓の外に謎の光が出たり、天窓から石(?)が降ったり、壁抜けしたりと奇っ怪な現象が起こるのが楽しい。このあたりは映画『キューブ 』(Cube)を連想した。つまり、死に方いろいろ(死んでないけど)。一定のルール(書物)に従ってゲームっぽく進める展開、いつまでも脱出できず、最後まで謎に答えがない点も同じだ。
何度も繰り返された「釘打ち」の後、「ルールを無視する」という動きらしい動きがやっと現れて、その後は急に、夫婦の卑近な関係性を皮肉る展開となる。卑近であるがゆえにわかりやすく笑えて楽しいのだが、前半の狙いとは違うところに来た感。子育てする女に操縦される男、存在論から男の人生論への転換だ。最後にまた釘へとループしたいのは理解できたが、この展開だと「女の願う男像が男の願う認識と合致しなくなると釘が登場する」という解釈になりはしないか。星新一的だ。いやそういうことなのか? うーむ。
『戦うゾウの死ぬとき』という脚本を改訂・改題したということなので、最初は「戦う象の暴走」、つまり夫婦関係の破綻(改訂後の終盤部分)の方向を向いていた作品なのかな、と想像。不条理も、シニカルな夫婦関係も、どちらも札幌オリジナルの脚本ではあまり見かけないテーマだ。どちらかに振り切って、そしてできれば60分程度にまとめて仕上げてみていただけないものか…などと思ったり。
今回の公演では上演回ごとにキャストが変わるのだが、私が観たのは作演のすがの公が男役を務める回。さすがの演技力と「味」でシーンを引っ張っていて素晴らしかった。女役は線の細い方だったが、ガツガツと会話を打って出るタイプの女優であれば、作品全体の見え方もまた違うように思う。
2017年11月23日14時 シアターZOOにて観劇
text by 瞑想子