苛烈な…、運命? 劇団竹竹『マクベス』

過去に観た『マクベス』は、オペラとバレエの作品のみ。だから比較はできないし、そもそも古典を語る知識は私にはない。

迫力ある作品だった。おどろおどろしい冒頭の立ち上がり、机や椅子を使った演出、鍛えられた俳優の身体、改変された設定の面白さ、といった素晴らしい点についてはやすみんしのぴーの感想に詳しい。「なるほどそのように表現するものか」と勉強になった。褒める点について付け加えることはない。

その他の点でいえば、マサコさん同様に中盤でうっとりしそうになったり、やすみん同様に白いマクベス夫人の登場と不思議なダンスに驚いたりした。ダンスに限っていえば、私はやはりダンサーの身体でピシッと表現されるほうが好きだ(演出家は俳優の身体で表現するこを重視したそうだ)。
…さて、それ以外のこととしては。

いい舞台を観た、という充実感があった。TGRで上演された作品でいえば2014年『アイランド』(韓国)、2015年『素晴らしい未来』(ロシア)のような。しかしそれらを観たときと同様の「うーむ、わからん」という気持ちもあった(前2作ほどではないが)。いや、物語がどう展開したかはよくわかった。わからなかったのは「演出家はどのような解釈を提示しているのか」という部分。最前列は字幕が見辛い、重要なラストの部分で字幕のタイミングがずれて素早く消えていった、ということもあるかもしれない。字幕とシーンの両方を追っていたので双方から重要なものを受け取りそびれたのかもしれない。

マクベスもマクベス夫人もその他の登場人物も(三人の魔女に替わる地霊めいたものも)、常に苛烈だった。迷うときも怯えるときも、ラストシーンでも。韓国のお国柄だろうか? 2014年上演の『アイランド』もそうだった(2015年に観たときは情感を感じたが)。それとも、人間の心情ではなく運命というものを見せようというときには、同化作用を避けてこのように演出され演じられるものなのだろうか。ああ、ラストの、永遠に未完の人間と運命と、についての字幕を追い切れなかったことが悔やまれる。

目を潰されたマクベスに私はオイディプスを連想したのだけど(今思えばあれは自分でえぐるのだった)、すぐに「いや、シェイクスピアだしリア王でしょ」と訂正された。目をえぐられて心の目が見える、ということか。それとも恨みの深さの現れか。

マクベス夫人の妊娠には、2014年のTGRで上演された劇団可変『王女メディア- 無惨なメディアの詩』 (韓国)を思い出していた。妊ることがテーマになっていた作品だ。韓国では今の日本以上に、「家の子を産む・血筋を残す」ということが重要なのだろうか。だからこそ流産(死産?)も天罰(あるいは過酷な運命)の一つとして加えられたのだろうか。
 
 
2017年11月22日19:00 パトスにて観劇

text by 瞑想子

SNSでもご購読できます。