あらすじを書くのが難しい作品だ。ざっくり言えば北海道の炭鉱町を舞台にした人間ドラマ。中心となるのは健司と由里子という若い夫婦。2人が生活をした70年代の話を、娘の真実が母親に聞く……のだけど、現代パート(90年代)と過去の回想パートが交互に行われ物語が形作られる、というわけではない。
途中、登場人物が暗闇の中に1人ぽつんと現れ独白するシーンがある。通常、そういう人物はストーリーの階層からはずれることになる。主人公や物語の語り手がおこなうことはおかしくなくて、本作でも娘の真実が独白するシーンがあるのだけど、ほかに、脇役といって差し支えのない人物まで同じような、いや、もっと特殊な意匠を凝らして独白をおこなう(眼帯ね)。
いったいこれはだれの物語なんだろう。なにを追うべきなんだろう? 思えばそこにいたるまでにも、さまざまな人物が登場し、その物語がメインストーリーをよそにふくらんでいった。東京から主人公を訪ねてくる3人の旧友は、アクセントなどではなく中盤も物語にからみ続ける。それぞれの背景や意外な真相まであって、炭鉱町の物語がまるで東京に引っぱられているようだ。
それはまだ、主人公・健司の心境を表していると解釈できる。だけど炭鉱会社の人間である横塚というキャラクターは主役を喰ってしまうほどの存在感で、正直僕は中盤以降、この作品を彼の物語として観ていたほどだ。さらに、ナゾの老炭鉱夫も現れ、終盤にいたるまで存在感を発揮し続ける。この人物の正体はみなまで言わずともわかることなのだけど、劇の終盤において過剰な丁寧さで明かされる。
こう書くとまるで批判しているように思われるかもしれないけど、そうではない。むしろとても興味深く観た。MAMを主催しこの作品の作・演出である増澤ノゾムは、役者としては抑制された演技で輪郭以上の存在感を観客に与えるのだけど、こと脚本になると、細部がどんどん枝分かれしふくらんでいき、演出としても、いろんなことをやりたいタイプのようだ。もちろん、役者のときのタイプと作・演出のときのタイプが同じでないといけない、なんてことはない。ただその違いを面白く思った。
むしろ、枝分かれしてふくらんだ脚本と、さまざまなアイデアの演出を、しっかり1本の舞台として作り上げたことは力量だと思う(ただし、2時間弱の上演時間は長いと感じた)。
最後に、役者について。夫の健司を演じた遠藤洋平は、内向的なエネルギー、無骨な若さをうまく表現していた。妻の由里子を演じた成田愛花は、静かな演技にもかかわらず、しっかり舞台の核だった。ここがぶれなかったからこそ、物語は崩れなかったのかもしれない。横塚を演じた本間健太はもっとも輝いた存在で、作品を自分のものにしてしまった。また、出番は多くないが、娘の真実を演じた黒石海月も光っていた。ポンと放り投げたような純粋さがよかった。
2017年11月9日19時30分~21時30分 シアターZOO
text by 島崎町