旋回する物語、変容する言葉 proto Paspoor『ある映画の話』

ちょうど長かったTGRのロングラン観劇の千穐楽。見終わった後、何人かの方と感想を語り合う時間があって、ようやく最終列車に乗り込みました。さっさと寝ないといけないのですが、どうも気になって、ふと思い立って僕の人生に一冊でもある、ヒチコック/トリュフォー「映画術」を読みました(ちなみにこの本は一旦絶版になったのですが、映画ファンの熱いラブコールで復刊されています。Amazonでどうぞ!結構いいお値段しますが読み応えたっぷりです)。なんだか、既視感ではないのですが、どこかでこういう物語を観た記憶があるのに気がついたのです。多分、フランソワ・トリュフォーの「ある映画の物語」を下敷きにした物語だろうと思います。「ある映画の物語」も撮影現場で起こった話、起こらなかった話を監督自らが語るというヌーベルバーグ時代の名作。でも、僕は大抵の名作は偉大な模倣からできていると思うので。とにかく、クラアク芸術堂を主宰する小佐部明広の溢れる才気を感じさせる劇でした。彼のリフレットの言葉と少し違うのですが、言葉と身体と想像力。劇の原点とも言えるところに立ち戻って、クラアクではやれないことをやってみようという並々ならぬ意欲を感じました。

ただ、演劇人が映画的なつくりに挑戦するときに必ずしでかしてしまう失敗をしています。失敗というのは、「演劇におけるの暗転の必然性と、フィルムでいうシークエンスのつながり」は全く意味が違うということです。逆にもあるんです。そうそうたる映画監督が舞台演出に挑んで失敗した作品を観ています。新藤兼人の「ラブレター」(ぽっぽやの短編集最大のお話)。これは暗転ばかりで辟易しました。日本映画監督協会会長もやられた崔洋一の「女殺し油地獄」もそうでした。思うのですが、映画監督たちは同じ舞台でのシーンの転換や時制の取り扱い、つまりセット替えができないことに困惑するだろうと思います。暗転しないと次のシークエンスに進むことができないような。

本作でも、トライアングルのルールに従わず、こっそり目を開けて、盗み見してたら、やたら場転が手間取って長過ぎるところがありましたし、段取りが見えてしまって、劇の緊張感が切れるところもありました。一方で、王様と奴隷の気分になって騙されたと思ってルールに従ってみると、まか不思議、映画のシークエンスがちゃんと並んで、物語を押し上げてくれました。実験的というべきか、トリュフォーへのオマージュなのでしょうか、「失敗」をカバーしてあまりある作品でした。些細な若い男女のセックス譚から物語が暴力性を帯びながら、主題を徐々に高いところへ押し上げていく様には唸ってしまいました。これは才能ですね。小佐部ワールド全開。札幌演劇界というものがあるのであれば、その才能を評価されながら、なぜか辺境で孤独に闘っている小佐部の作品は常に注目を集めていると僕は思うのですが、今回の成功を大いに買いたいと思います。

小佐部はライナーノーツの中で、自ら書いている本がコモディティーしたことに気がついて、新しい役者陣と意識して「逸脱」した芝居をやってみようと思ったと書いていました。MITのメディアラボを所長として率いるジョーイさんこと伊藤穣一は、イノベーションを起こす力として、Positive Deviance、つまりポジティブな逸脱が必要だと述べています。小佐部が、Positive Devianceを意識したかどうかは別にして、独創的で革新的な劇だったと思います。俳優で言えば、一番印象的だったのは「僕の兄」の中村雷太、「僕の女」の仁木わかなが印象に残りました。そして、女が二度首を絞められ、二度目には殺される必然性が成り立っていることにも。

小佐部は、もう第2弾を用意しているようです。「きっと台詞と物語がどさっと作家の頭に降りてきているのかも」知れません。変化することのリスクを負って、新しい芝居の姿をこれからも見せて欲しいと思います。観劇後、本当は冷えたボンベイサファイアを一気に飲みたい気分になりました。

12/1(金)20:00〜シアターZOO(初日)

初日でこの完成度。本が早く上がった証拠でしょう。

 

text by しのぴー

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