黄昏に描くユートピア RED KING CRAB『ガタタン』

「炭鉱の町を舞台にした物語」との触れ込みだったが、思っていたほど炭鉱の物語ではなかった。ちょいと設定をずらせば大抵の田舎町に通じる、普遍性を感じるストーリーだ。

かつてとある産業で栄え、今は賑わいの失せた町。多くの人が去った中、残り続ける人、戻ってくる人がいる。そのような人が集う「場」として、『ガタタン』では銭湯(の待合い)が舞台として設定されている。
母亡き後に銭湯を守るようになった長女ハル、母の葬式にも戻らなかった長男のアキ、銭湯を手伝いに通う次女のユキ。ふらりとやってきて居着いた男・クロと、姉弟妹を囲む(銭湯をたまり場にする)若者たちによって描かれているのは、「田舎町で生きるということ」の一断面だ。

「クロって何者?」という謎が引っ張るうちに登場人物がスムーズに紹介され、冒頭はリズムよく展開した。が、続く「彼らの日常」的なシーンにはやや冗長な部分も。また、炭鉱町の取材で拾った廃墟マニアの話題を入れたかったのだろうが、そのため「若者はそれでもそれなりに楽しくやってます」を伝えるイベントが、廃墟マニアを活かした街づくりイベントなのかとミスリードされてしまった(実際には合コン的なイベントだった)。

中盤以降を引っ張るのは「戻ってきた長男アキと家族」「ユキと恋人」の2つの関係性やいかに、という点。最終的には、アキの立ち位置もユキの恋愛も、収まるべきところに収まっての大団円…なのだが、円はやや歪でそこがいい。「それほどいい人ではない」というハルのセリフや、クロという存在のファンタジーを説明し尽くさないところにリアリティを感じる。

絶望的な暗さはなく、かといってご都合主義なポジティブさもなく、「いろいろあるけど、生きるってそう悪くはないよね」というトーンの中で、なんとなくまとまっての終結。これは人口減少化社会において実感を持って描き得るユートピアと言っていいだろう。停滞・縮小する地域に生きて、圧倒的な救いは望めないけれど今は一人きりじゃない、少なくとも明日はまだ繋がりがあるし笑いあえる、という明るみを切り出してみせた物語だ。

 
田舎と家族(集う人・集う場)の物語は、RED KING CRABの20014年公演『おだぶつ』、2016年『カラッポ』と共通するテーマで、作演家・竹原圭一が持つ「社会への問い」の根幹にあるものなのだろうと思う。
『カラッポ』では「場に人が集う必然の不明」があり、また(後に読んだ脚本の設定には全てが書かれていたのに)地域や人物造形などについての劇中での説明が不足していた。比べれば『ガタタン』は、「場」はローカル特有のコミュニティのあり方として違和感なく受け入れられたし、地域や人物についても、物語の流れを理解できるだけの説明はされているように思う。

しかしやはり情報の不足は感じる。冒頭の町の夜景や炭鉱町独特の事情などは、産炭地を知らない観客はどのように受け止めただろうか。
(この点については、私自身は土地の事情をある程度知っている上に、MAM『月ノツカイ』と札幌座『空知る夏の幻想曲』も観ているので正しく判断できない。それにしても、なぜ立て続けに炭鉱が舞台の演劇作品が札幌で創られているのか…)

また、アキが家を出た・戻ってきた理由は劇中では語られず、ありきたりの理由ではあろうが家族間でそこが語られない点は不自然に感じた。そして「母がよく作っていた料理」が「ガタタン」であることが説明されていなかったように思うが、聞き落としだろうか。タイトルにまでなっているのだし、何を使ったどんな料理かはともかく、郷土料理であることぐらいは語られても良かったのではないか。

 
私は冒頭で「思っていたほど炭鉱の物語ではなかった」と書いた。炭鉱の町に取材して、炭鉱らしい事件や風物を(それほど)扱わず、「普通の家族の物語」を掴んでくるところに竹原らしさを感じる。炭鉱町であることをもっとスパイシーに扱うべきかどうかは好みが分かれる部分だろう。情報の紹介でなく、過去をフックにしたドラマではなく、『ガタタン』は現在の産炭地に底流するもの掴んで構築された物語である点を、私は好ましく思う。炭鉱の繁栄をノスタルジーとして強調しすぎていない点も、だ。

作品全体から感じる朴訥さと鄙びた味わいは、RED KING CRABらしさだろう。しかし作品を続けて観てきた立場からは、次作には今少しの手法の洗練を期待したいとも思う。
 
 
2017年12が宇t16日14時 シアターZOOにて観劇

text by 瞑想子

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