それぞれの人間ドラマの深さがセリフによってしっかりと紡がれていた。きっと言葉を大切に選んで作ったんだろうなという印象。脚本演出の竹原さん、凄い。
舞台は田舎の銭湯。姉妹が切り盛りしている。番頭台に入湯料440円。冷蔵庫に水とお茶のペットボトル。石炭にストーブをくべる人。小さな町のコミュニティの顔なじみたち。同じことの毎日。季節だけが流れる。そこに突如現れたクロさん。
冷蔵庫にコーヒー牛乳は無く、保存のきくペットボトルになっている。もうその辺りから既にスタッフさんが、リアリティを追求していこうとしている姿勢がうかがえた。骨格さえ整えば、夢幻のような出来事も現実味を帯び、感情移入できる。おかげでとても自然に物語りに馴染むことができた。
このお芝居が凄いと思ったのはまずそのリアリティの追求。そして次に、世界は繋がっているのに隔離されているという田舎への誠実さ。おそらく舞台に出ていた”田舎の若者たち”は舞台上の通り生活しているかもしれないし、あるいはそれぞれがSNSを駆使して都会や別のコミュニティと繋がりをもっているのかもしれない。アキ君が正しくて、古臭い考えややり方に対して対応できない何かが存在するのだろうか。でもそれは、決して悪いことではない。生活は人それぞれなのだ。人が営むということに対して真摯であれば、自分が得意とすることを続けることは本当に誇るべきことなのだから。そういう意図をしっかりと感じることができた。
さらには段階的なコミュニティ範囲の拡大が絶妙だった。最初は姉妹。次に客と銭湯。それが幼馴染だとわかり、クロさんがお母さんを知る存在として、最後にアキ君が輪に加わり、最後は皆家族だという雰囲気。クロさんが最後にノートに書いた、一山一家。おなじ山に暮らすものはみんな家族。であるならば、ハルさんはその山の母として最後にアキ君に、そして顔なじみにご飯を振舞ったのだろう。炭鉱の町に住んでいた祖父母のことを思い出しても、いつもばあちゃんが主導権を握っていたし、居間では近所のばあちゃん連中がお茶を飲み、じいちゃんはテレビの前かカラオケか銭湯にいた。そんな個人的な記憶の回想がぶわーっと流れ込んできて涙が出た。
最後に、冒頭で述べたように、セリフによってしっかりと場面を繋いでいるところが凄いと思った。最初の全員登場シーンで25年というセリフをだすことで、ユキちゃんが生まれる前と風呂場改装とクロさんとの関係を匂わせた。
何より、なんでこのタイミングでアキ君が帰ってくるんだろう、ご都合主義かなと(それでもストーリーにはまっていたから違和感はなかったが)。ところが、後々クロさんに姉妹の事を任せてアキ君が立ち去ろうとし、それを遮るようにクロさんが「また逃げるのか」と飛ばす。この、また逃げるのか。田舎特有のなぜか誰かが情報を知りそれが広まるという特質をさしているのではないか。ましてや銭湯という町民の集会場の役割もある場所に情報が流れてこないわけがない。クロさんはたぶん、アキ君が東京から帰ってきた理由を知っていた。それゆえの、また逃げるのか。東京からも家族からも逃げるのかと言いたかったんじゃないか、と、引っかかった言葉の意味を帰り道に反すう、考察してぞっとした。一言にそこまで奥行きを込めているんじゃないか。深読みしすぎかもしれないけれど、パンフレットに”何度も現地に足を踏み入れた”と記載されていたから、多少はそのエッセンスが入っていると思う。
一人暮らしをしなければ母の偉大さはわからない。姉妹よりアキ君のほうが少しだけお母さんをわかってたのかもしれない。封筒のお金の部分も、やむにやまれず米を買ってしまい、金は所詮金なんだと開き直る、あるいは一万円札を崩してしまえばあとはなし崩しに使ってしまう心情になったのかもしれない。その辺の奥行きも表現されてて本当に凄いと思った。そこにハルさんの成長というか心変わり、過去の話を、したくない(拒絶拒否)、から、する必要がない(決別と意志)に変化していたり。
暖炉と家族とガタタンと。
どれだけ文字にしても全然伝えきれないので、再演の際にはたくさんの人に紹介おすすめしようと思える作品でした。
12/16 14時 シアターZOO
投稿者:橋本(30代)
text by 招待企画ゲスト