劇中、アイヌの女性が歌う。病で苦しみもだえ、文脈のない言葉を叫ぶ男を抱きしめるようにかかえ、歌う。男の混乱を、怒りを、しずめるように、なだめるように。
うす暗い舞台。外は極寒の北国だ。
200年前、蝦夷地。雪と寒さとひもじさと病が荒れ狂う、この世の終わりのような場所に、東北から3000名が派兵された。ロシア帝国の脅威からこの地を守るためだ。津軽藩は500余名を出兵させ、100名が斜里地方の警備にあたった。
だが病気が蔓延し、藩士たちはつぎつぎ死んでいく。冒頭に書いたように、劇中、アイヌの女性は病で昏睡状態におちいった男に、歌をうたいしずめようとする。体のなかに染みこむような、透明で美しく悲しいその歌は、いったいなにをしずめようとしたのか。
病人のなかにすくう病か、それとも、この土地を踏みにじる人間の心か。ロシアのものでもなく、倭人の物でもなく、アイヌのものでもなく、だれのものでもないこの場所を、奪いあって無残に命を落としていく現状をしずめようと歌ったのか。
この劇が描いているのは200年前の北海道だけではない。ミサイルを撃つ国があり、警報を設置し、早朝に鳴り響かせ、危機が煽られ、他の人を憎み、侮蔑する日々を僕たちは生きている。
だから僕たちの心の中に、アイヌの女性のあの歌がいつまでも響きつづける。
『珈琲法要』というタイトルにも触れないといけない。浮腫病が猛威をふるい、ぞくぞくと藩士が死んでいくなか、薬としてコーヒーが送られてきた、というのはややフィクションらしい。
この劇で描かれる1807年の津軽藩士大量殉難事件から48年後、1855年に再度派兵されたおりに、浮腫病の予防薬としてコーヒーが配給されたという。
極寒の蝦夷地に薬としてのコーヒーという組み合わせは奇妙で引きつけられる。1807年の事件と組み合わせたときにまた別の広がりが生まれることを期待しての創作だったのだろうか。それとも、1807年に薬としてのコーヒーがあれば、という思いなのか。
はたまた『珈琲法要』というタイトルどおり、劇をとおして舞台上であの時の藩士たちにコーヒーを届け、弔うためなのだろうか。だとすれば病に苦しみながらコーヒーを飲んだあの藩士のその後もうなずける。彼は旅だったのだ。
『珈琲法要』は2010年、北海道で殉難した津軽藩士の法要を毎年行っている黒石市の浄仙寺で、上演・奉納されたのが初演だ。
公演場所:シアターZOO
公演期間:2018年1月27日~2月1日
初出:札幌演劇シーズン2018冬「ゲキカン!」
text by 島崎町