打球はフェンスを越えるのか 円山ドジャース『誰そ彼時』

公演のパンフレットに書いてある演出や代表者の言葉はたいてい面白くない。だけど今期演劇シーズン、『サクラダファミリー』と『誰そ彼時』のパンフは違う。切実な思いが書かれている。

『サクラダファミリー』は自らの父について、そして『誰そ彼時』は札幌と自分について。

お芝居は純粋に舞台上で起きてることだけを評価し、制作者側の情報は考慮しない、という考え方もあるかもしれない。

だけどパンフに書かれてしまっては、しかもその思いがグッと響いてしまっては、なによりその文章が劇の内容をさらに高めてしまっては無視するわけにはいかない。

『誰そ彼時』のパンフには「武田晋、札幌発信最後です」と書いてある。「禊」と題された彼の半生について書かれた文章の最後から5行目だ。

なぜそうなったのか、そこにいたるまでの過程やこれからのこと、そして札幌という街が彼にとってなんだったのかも記されている。

札幌の人はあたたかくも冷めている。一定の温度を保ち他者との距離をとり、それでいてやさしさもある。

無関心ではない無関心。『誰そ彼時』で描かれるのは若年性認知症となった父で、その姿が、札幌の街のようにも見える。昔やさしかったけど、今は自分のことなど忘れてしまった人。

痴呆症になった父も、この劇自体も、野茂英雄をたたえる。メジャーリーガーのパイオニアだからじゃない。はじき出され、孤独な戦いにいどみ、だれにかに応援され、成し遂げたからだ。「応援され」というのが重要なのだろう。

『誰そ彼時』は円山ドジャースという聞き慣れない団体がおこなう公演だ。演劇シーズンのためだけに結成され、「最後の発信」をして東京に旅立つ男の応援団だ。

それから、この劇を観た人もまた応援団だ。料金を払い、笑って泣いて楽しんで、拍手をして送り出す。いつか、あの活躍している人の札幌最後の舞台を観たんだよと、自慢する日を待って。

野球にはロマンがある。勝ったり負けたり、泣いたり笑ったり。汗と涙、栄光と挫折、それらすべてをつめこんで、一試合一試合、一球一球がある。舞台にも、それがある。『誰そ彼時』にも。

2時間弱の劇、三振、凡打、ヒット、2塁打……それらの積み重ねのうえにラスト、大きな打球が飛ぶ。認知症の父と挫折しかけた娘の関係、消えた預金はどこへ行ったのか、夢やぶれた青年の行く末は……。

打球はフェンスを越えるのか。応援団の思いを乗せて、はるか遠くまで飛んでいってくれるのか。

 

公演場所:コンカリーニョ

公演期間:2018年2月1日~2月10日

初出:札幌演劇シーズン2018冬「ゲキカン!」

 

text by 島崎町

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