私の身体と他者との対話として 『コミュニティダンスWS発表公演 しっぷまいろー CIPMYLO』

普段、映画やドラマもそうだけれど、特に再現性のない演劇を観ている時、僕は、無意識下で、役者から放たれる言葉の意味を受け止め、物語の行く末を考えている。つまり、劇という極めて揮発性の高い成果物を観ようと想像力という翼で観客席から飛ぶ。できれば、「より速く、より高く、より遠く」へと。できれば他の人よりも感じたい。などと考えていることに、コミュニティダンスを観ていて、そう気がついた。
札幌教育文化会館で上演された『コミュニティダンスWS発表公演 しっぷまいろー CIPMYLO』は、僕たちの不揃いな身体が持つナラティブや他者とのダイアローグの可能性を、即興性という舞台が持つ普遍的なアプローチを通して見事に示してくれた。札幌市教育文化会館は2009年に、子どもから高齢者、障がいを持つ人らが参加できる「コミュニティダンス部」を立ち上げ、活動を続けているそうだ。公共財としての劇場には様々な機能があるし、求められている。一つは、言うまでもなく優れた芸術作品の支援や上演であるだろう。だが、このコミュニティダンスのように、市民社会からのアートへのアクセスを積極的に確保して、むしろアーティスト(表現者)が一般の人たちのニーズに応じた活動の場を提供または創造することもより今日的な役割だと感じた。
『コミュニティダンスWS発表公演 しっぷまいろー  CIPMYLO』は、去年に引き続き、振付家・ダンサーである砂連尾理が、構成・演出・振付を手掛けた。去年9月頃から北海道各地でモチーフの取材を始め、「札幌の過去、現在、そして未来」をテーマに、「スポーツ」をお題にしてワークショップを行い、17人(映像のみ出演の方もいるので実際に舞台に立ったのは16人だけれど)の参加者と対話しながらつくりあげられた。「しっぷまいろー」は、オリンピックの逆読みである。CIPの音に船、SHIPを重ね、MYは日本語の舞に、そしてLOは舟をこぐのROWと、かなり強引な因数分解だけれど、ひらがなで「しっぷまいろー」と書くと、なんだかキッチュな響きがあって妙に納得させられてしまう。これも言葉の持つ魂のようなものかもしれない。
砂連尾、そして札幌でコンタクト・インプロビゼーションのユニット、micelleとして活躍する同じく振付家・ダンサーの櫻井ヒロ、河野千晶が参加者とつくった演目がいずれもユーモラスだ。ドラマで例えると「スジなし」のような面白さがあった。選手宣誓のあと、競技1「背中でクロス」、競技2「マッサージ合戦」、競技3「逆メドレーリレー」、競技4「コロリーナ」、競技5「背走一直線」、競技6「お盆送り&渡し」、引き分けジャンケンというハーフタイムショウを挟んで、競技7「ブラインド二人三脚」、競技8「名前を逆さにしてシャウトしよう、競技9「身体を通して伝わっていく」、競技10「流木船からのジャンプ」、競技11「ぼーっとしよう」、最後は、砂連尾も加わっての圧巻のインプロビゼーションダンス(閉会式)。一つ一つの「競技」を描写するのは難しいけれども、いずれも競技としてのスポーツと真逆の身体の使い方に試みている。個人的には「逆メドレーリレー」と「お盆送り&渡し」、そして「流木船からのジャンプ」がツボだったし、「ぼーっとしよう」には、仕事で毎日くたくたになっている我が身のサラリーマン的な不条理さを、ふと気づかせてくれた。白老町の海岸に流れ着いた流木でつくられた一艘の船(舞台美術:木木木人/オランウータンと読む)が、何とも言えない「ここではない何処」でありながら「北海道のとある風景」を感じさせる。ジャズのインプロビゼーション(小山彰太、石田幹雄、横山祐太)がユーモラスに流れるダンスを舞台につなぎ止めるように響き合う。シンプルだけれども、かなり広角なタブローを美しく見せた照明(高橋正和)も良かった。
僕は演劇とは言葉だと思うし、その言葉を役者という身体を通して伝える再現性のない、作家も役者も永遠の再演運動を続ける芸術だと思っている。基本的に固定された映像という世界を仕事にしている僕の、演劇や舞台に対するリスペクトはそこにある。「しっぷまいろー」も、最初は、演劇として「理解しようと、あるいは感じよう」としていた。でも、どこかで気づいたのだ。身体は言葉を超えるのではないかと。時として言葉は彼岸と此岸に分かれ、舞台と観客を隔離してしまうことがある(これには、稀に僕が感じる舞台から観客への上目目線も含む)。ポスト・トゥルースの時代、言葉とは、僕たちがお互いを理解しあう共通ツールになりえないかもしれない。どこかの大統領の反知性的な言葉の使い方はむしろ世界を蝕んですらいる。一方、身体はどうだろうか。生まれてから死ぬその日まで「私である私の身体」を再現性なく刹那で重ね合うことで、他者を感じ、その関わりの中から、本来のコミュニケーションが生まれるとしたら、即興性とは「心の発露」ではないかと思うのだ。
アフタートークで砂連尾が、「近代国家が自明の理として追求してきた競技としてのスポーツではない価値観をつくりたかった。健常者がひとつのモデルにならなければスポーツはどうするのだろうか。参加者の方々と話し合う中で、絶対にゴールしない100m走や逆向けメドレーリレーなどのアイデアが出てきて、こう身体を動かしてみたらどうなるだろうかと即興的な共同作業でつくっていった。細かな振付は一切していない。参加した人たちの日常から取り出された身体が劇場を飛び出して欲しいと思った」と話していたのがとても印象的だった。「僕はディスカッションというのが好きじゃない。ともすればディスることが起こる。人が人とかかわるためには対話すること、ダイアローグがとても大切だと思う」とも。
コミュニティダンスのルーツは、1970年代のイギリスで生まれたコミュニティアートだそうだ。都市化で希薄になりつつあるコミュニティを立て直そうと始まった運動の中で、ダンスにもスポットが当たるようになった。ご存じのようにイギリスは今も近世の階級意識が色濃く残っていて、移民含め多様な民族・人種がいわゆる大衆社会を形成している。コミュニティダンスもコミュニティアート運動から派生し、ブラックや女性、同性愛など様々なリベレーションの追い風を受け発展した。イギリスではコミュニティダンスは、バレエのようなプロフェッショナルな劇場でのダンス、教育におけるダンスに次ぐ、第3のダンスとして位置づけられているそうだ。パブリックという概念がちゃんと機能しているイギリスが羨ましい。
砂連尾は言った。「健常者も障がいを持った人も、高齢者や認知症を抱えた人も、そしてLGBTの人も」と。コミュニティダンスとは、そうした多層性、多様性を内包した表現なのだろう。そして、ダンスという表現を、不寛容と分断の真っ只中にいる僕たちに最も必要な「異なるものを受容する、本来あるべきコミュニティの姿」として示してくれるのかもしれない。

2月25日(日)札幌市教育文化会館・小ホール

text by しのぴー

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