「2017年記憶に残る3作品」の企画からのハミダシ

「2017年記憶に残る作品を三つあげるとしたら」というお題を頂戴し、三作品あげたものの、その一つ、「欲望という名の電車」についての話が長くなったので、こちらに書かせていただく。
記憶に残る、その残り方も色々だが、「感動!」というなら、一昨年になるが、シアターコクーン・オンレパートリー2016、アーサー・ミラーの「るつぼ」がダントツ1位。ジョナサン・マンビィ演出で堤真一、松雪泰子、黒木華らが演じたのだった。この作品がここ最近は今もずーっと心に残っているナンバーワンだ。「魂を揺さぶられる」というのはこのことでしょう。見終わって、よかった、楽しかった、面白かった、泣けた、とかそんなもんじゃない。その感動たるや、あゝどうしよう〜と不安になるくらい「自分ならどうする」「自分はどう生きれば」と問い続ける、苦しいくらいの感動である。あゝ、また思い出してしまった。苦しい。
それは2016やろ、2017年度ってゆーてるやん、ということでございましょうから、やや感動度を下げて申し上げますれば、テネシー・ウィリアムズ「欲望という名の電車」でござる。振り返れば、お江戸では野田秀樹も三谷幸喜も観たのでございますが、記憶からフェイドアウトしておりやした。

主役の大竹しのぶはやはりよかったのだが、心に残る理由はそれではない。勝手な表現だが「whole(ホール)」演劇だったのだ。まあるい「ホール」ケーキと「ピース」のショートケーキを思い浮かべていただければ、王道、正統派、完璧、満足、見栄え、お得の「ホール」である。自分の思うwholeの演劇が何かは掴みきれないが、その戯曲のもつ全てが表現されている、つまり作者の意図や社会性、芸術性、ドラマ、見せ所など、あらゆる要素がすべてカバーされてしかも秀でている、というもの。本年は一つ指標を得た。それは、「劇中、いつ誰に目をやっても、その人物は彼の彼女の人生を真摯に演じている、つまり登場人物全員がそれぞれの人生を演じている、全ての登場人物、主役から端役のご近所さんや小間使い、通行人に至るまで、全員が個々の人生を演じている演劇。」役の重要さに関係なく、それぞれの人物がそれぞれの人生の主役である。もちろん脚本に忠実に演じ、過剰な表現をするわけではない。だけど観るものには判る。その時自分が目をやった人物にググッと入り込めるのだ、彼や彼女が主役のように。個々の俳優の演技力だけではない、演出の力だと思う。

後に静岡芸術劇場で、芸術監督、宮城聰氏が、そういうタイプの演劇を「イギリス的演劇」と称しておられた。これは同氏のミヤギ能「オセロー」を観劇した際、「日本の古典、能や歌舞伎は、主役や主題にフォーカスして他を削ぎ落とすのに長けている、その一方でイギリスは、」という宮城氏のアフタートークでの対比説明であった。手法の問題だが、「イギリス的」と名付けられて安心、納得。形のないものに呼び名を与えてもらえるのはホッとする。宮城氏はいつもアカデミックな演劇論を分かりやすく話してくださる。ありがたや、ありがたや。

さて、「欲望という名の電車」。フィリップ・ブリーン演出、出演は大竹しのぶ、北村一輝、鈴木杏ほか。記憶に残っているのは、妹のステラ役、鈴木杏が、精神病院に連れられて行く姉ブランチの名を叫ぶ最後のシーン。大声で名を呼べば姉の正気が戻ってくると信じているように。叫びながら流れる涙は、古き良き過去に永遠に決別する涙だった。だって「ここ」で「今」を生きていかねばならないのよ。そう言っているように思えた。切なかった。抱きしめたかった。抱きしめたかったのは、ステラだけではない。作者テネシー・ウィリアムズも。ゲイであったことの苦悩が作品を通してこんなに表れていたかと気づき、LGBT理解が進んできた現在なら少しは安らいだろうに、と思うと可哀想でならない。いつの世も女とゲイは、憂い哀しみ多かりき。

2017年もいい時間に出会えた。ありがたや、ありがたや。

「欲望という名の電車」はシアターコクーンにて
2017年12月27日18:30 観劇

text by やすみん

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