今年、札幌公演がなかった「劇団どくんご」だけど、近郊の小樽、岩見沢などでは公演がおこなわれた。新しい客層を開拓するためだろうか、それとも、知らない町へ旅する楽しみを、彼らはつねに持ちつづけているからだろうか。
ともあれ僕は、小樽公演へ出かけた。場所はJR南小樽駅から徒歩10分くらいの住吉神社。どくんごは野外テント劇で、「場所」それ自体が公演の一部だ。札幌公演で使っていた円山公園もよかったが、今回、住吉神社という場所の異世界感、非日常感はきわだってよかった。時間が止まったような静けさと清涼感は、神社という場所独特のものだ。
それに、南小樽というのもよかった。はじめておりたった駅なのだけど、平地が多い札幌では味わえない駅の作り。谷のようにくぼんだところを線路が走り、ホームもそこにある。駅舎はまるで崖の上のようなところにあって、ホームから階段をあがってたどりつく。
こじんまりした駅舎に隣接したセブンイレブンが、いかにも現代的かもしれないけど、不思議とこういう場所にあるコンビニは、それはそれで趣(おもむき)がでるから不思議だ。
駅舎から出て住吉神社を目指すのだけど、外に出るとすぐホームと線路が下に見える。いっけん道路のようだけど、ここは陸橋なんだ。見おろすと、さっきまでいたホームが谷底にあって、まるで別世界のように見える。僕はちょっと、めまいがする。
歩いていくと右に高校があり、夏休みの夜ともなれば、人はもう、ほとんどいない。左には市立病院あって、ああこれが、ひと悶着もふた悶着もあったあれか……なんて考えたときが、僕が現実世界のことを思った最後だろう。
そこからの道のりになにか店があるわけでなく、ひたすら神社に吸いよせられるだけの一本道だ。だんだん鳥居が近づいてくる。期待も高まる。鳥居をくぐり、ついに神社に足を入れると、そこはもう異世界だ。お芝居を観るということは、やっぱりどこか、ピリッとした非日常感をともなう。それがいい。
場所にある力や雰囲気を、芝居に吸収して吐き出す。だけどそこはかりそめの場所で、数日ののち、あとかたもなくつぎの場所へ消えていく。「劇団どくんご」という非日常の存在が、場所の力とかみあって不思議な場を生み出す。僕たちはそれを毎年観にいくんだ。
ちなみに今年の公演を僕は詳細に書くことはできない。なぜなら僕の近くに陣取った未就学児童3~4名、彼らが生み出す非日常性もすごかったからだ。
「ママぁ~、いつ終わるの~? はやくクワガタ捕りにいこうよぉ~」これは舞台上のセリフではなく子供たちの発するいわゆる“ダダ”だ。もちろん前衛芸術運動のことではなく、上演中、本能のおもむくままに好き放題する子どもの独白だ。
上演中これがたびたび繰り返され、僕は集中できず芝居もイマイチ頭に入ってこなかったけど、言ってしまえば今回のどくんご公演は僕にとってすべてが体験だったんだ。札幌から南小樽まで来て、駅や神社に心動かされ、芝居を観ながら子どもの小悪魔的無邪気さに翻弄される。それらをひっくるめて「どくんごを観た」ってことなんだ。
演劇や映画を観るという行為は、その作品を観ているあいだだけに存在してるわけじゃない。一連の行為、もしかしたら観にいこうと決めた瞬間から、チケットを予約したり、スケジュールを調整したり、だれかを誘ったり、事前にご飯を食べたり、事後にお酒を飲んだり、みんなで感想を言い合ったり、ひとりで思い出したり、こうして感想とも旅行記ともつかない文章を書いたり、それらすべてをひっくるめて「観た」ということなんだろう。
終劇後、熱気のこもるテントを出ると、ひんやりとした夜気につつまれた。声のする方を見ると、木々のあいだを楽しそうに歩き、ライトを照らしている子供たちがいた。クワガタ、捕まえられただろうか。
僕はふたたび1本道を歩き、静けさを増した南小樽駅にもどる。札幌駅のようなにぎわいや喧噪はなく、ただ夜だけがあるホームに立つと、少しだけ孤独を感じた。
列車に乗ると、疲れきった海外の観光客と同じ車両で、みんな、こうして札幌へ帰っていく。窓の外を見る。暗くて海はもう見えない。きっとそこにあるんだろうという想像だけで、僕の中に存在している。
列車は走り、まるで暗いトンネルのような闇をぬけると、しだいに明かりが、住宅街が増えてくる。札幌という日常に、もどってきた。
つかのまの非日常。どくんごの夏だった。
劇団どくんご『誓いはスカーレット』
小樽住吉神社(小樽市)
2018年8月9日19時~21時
公演日:text by 島崎町