理解するということを知る 演劇シーズン2018夏レパートリー作品『12人の怒れる男』

決めつけから始まる討議が、穏やかな水面に投げ込まれた小石が大きな波紋を作るように、揺れ動く。父親を刺し殺した容疑で裁判にかけられた19歳の少年の評決を出すために陪審員室に集められた12人の男たちの物語である。

2015年の再演の時とは全く違った見え方だった。
あの時はヒリヒリとした緊張感の中、評決結果の行方よりも、12人の男たちがそれぞれに裁かれたように感じた。これまでの彼らの人生において見ないようにしてきたことがあぶりだされ、今後はそれと向き合って生きていかねばならない、そんな重苦しさに観劇後もしばらく胃の辺りがどんよりとしていた。
笑いの1つもない最初から最後まで張りつめた展開の記憶があったので、今回、時折訪れる緩みに、少し違和感もあった。

同じ内容、同じ結末であるにもかかわらず、心に残るものもぜんぜん違う。
印象に残るセリフも、男たちの見え方も。
それは、自分自身の心の持ちようのせいなのか、演出の納谷真大が伝えたいメッセージの違いなのか。

イライラし、カッとなり怒鳴り散らすのは密室の蒸し暑さのせいばかりではなく、その場所が完全な非日常、異空間であるからか。

日常の中では、きっと彼らも紳士であり、簡単に怒りをあらわにして、相手に詰め寄ったりはしないのだろう。評決を下すべき少年が彼らと無関係の人間であるのと一緒で、同じ部屋にいて顔を合わせている者同士であっても、そこにいるのは名も知らず、どんな出自であるかもわからない無関係の人間。だからこそ、剥きだしの感情が、一人ひとりの心の奥底に潜むものがさらされてしまうのかもしれない。

その剥きだしの何かが、お互いに摩擦を起こし、火花を散らす。
触れられたくないものに迫られるのは苦しい。
でも、そのぎりぎりのところで、思い込みの恐ろしさ、自分の無知にそれぞれが気づいていったのだろう。

感動も、悲しさも、痛みも自分の中にあるものと響かなければ、感じられないものなのだと思う。
自分の中にないものを、相手の中に見た時、人は拒絶するか、歩み寄ろうとするかのどちらかだ。
彼らは決めつけという拒絶から、怒りをぶつけあいながら、抜け出したのかもしれない。
そうして出した答えが、真実かどうかはわからないけれども。

だとしたら、今回のこれは理解の物語なのではないだろうか。
自分の中の偏見や思い込みを越えて「自由な少数意見」を認めることを、身をもって知ったのだ。

展開が行き詰るほどに、音が吸い込まれ、椅子が倒れ、机の上に乱雑にモノがぶちまけられる。
心が乱れるほど、場が乱れていく。収束に向かうとともに気づくと机の上は調えられ、結論が出ると同時に舞台上に柔らかい光と音が戻ってきた。

12人の男たちは、きちんと音も光もある日常に帰っていく。ここに来るまで自分の中にはなかった、理解のタネを携えて。

2015年に観たものとは真逆のほんのりと希望のあるものに感じられるのは、こういうことなのかと思う。
観劇直後に感じた違和感も、ひと晩考えて、こういうことならと納得できたような。
もちろんこれもわたしの「自由な少数意見」に過ぎないのだが。

2018年8月17日 14:00/19:00  於 かでる2.7ホール

投稿者:わたなべひろみ(ひよひよ)

text by わたなべひろみ(ひよひよ)(ゲスト投稿)

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