相性だけのせい? RooTS Series『書を捨てよ町へ出よう』

マームとジプシー、もしくは、藤田貴大が作演出で関わる作品をいくつも観てきたが、私の中では相性がいい作品(=面白いと思ったもの)と最凶に悪い作品(=どうしてこんな風になったかなと思ったもの)と二分される。残念ながら本作は後者である。なぜそう思ったかという点が、以下の通り。

1.小ホールなのにマイク使用。なのにせりふが聞こえない

2.原作となる映画を観たり、本を読んだり、寺山修司の作品に触れたことのない人に物語が伝わりにくい構成

3.身内ウケ感がやや強い

1について。2015年の初演を観ているので、今回も劇中で鉄パイプを組み立て、解体するという演出や、ドラマー山本達久の演奏が加わるのは想像できた(その音の大きさ具合も)。だけど、その他の音響も加わったせいか役者のせりふが聞こえなかった(前から6列目にかかわらず)。私が思う寺山作品って、舞台や映画が醸す独特の雰囲気もそうだけど、せりふがドラマチックで美しい。それが聞こえないとは…。

2について。主人公の男とその家族にまつわる物語の他に、さまざまな場面や断面をパッチワークのようにつなげていくという意図はわかる。が、場面によってはせりふが聞こえにくいせいもあって、何がどうしてこうなっているのか、という「物語としての」展開がみえにくい。寺山作品を観たことがない高校生曰く「何かいろいろやってたけど、結局何をやりたいのかわからなかった」そうだ。キャストを含めて初演から変わっている部分があるが、今回は何だかマイナス要素になった感じ。

3について。舞台上で役者が素になる瞬間をアクセントにしたり、そこで笑いを取ったりという作品は少なくない(実際、札幌でも結構ある)。好みで言えば、私はそんなに好きではない。というのも、観客と舞台・作品・役者との間に、一瞬にして「わからない人はわからなくてもいい」というラインが引かれ、我に返るから。ちょっとそれが多かったかなと。

演劇の面白さって、人によっていろいろあると思う。私にとっては、目の前で行われていること以外のことをも想像させて、観客の思考や心境を勝手にゴロゴロと転がされてしまうのと、終始、見えない何かが客席に、観客に手を伸ばしているような、舞台に取り込まれるような感覚が面白くて、長らく演劇を観続けている。一方で本作からは、「舞台」というフレームの中だけ完結したような印象を受けた。あんなに動きや音があったのに、何だか素っ気ないという感じ。たかくんの作品って、時代や次元の違うことを描きながらも、いつの間にかその物語が観客の思い出に心に浸食していくようなところが面白いと思っているのだけど。

再演で、(吉田)聡子ちゃんがいなかったのは残念だったなぁ。

帰宅後、瞑想子さんがショートメールで送ってきた「あのオシャレ系の舞台と、屋台とかの泥臭さがあわない」に頷く。

 

11月8日、札幌市教育文化会館小ホール

 

追記:職場の後輩が、同日、最後列(PAの前)で観劇しており、彼女曰く「声とか全然聞こえてましたよ」。そういや小ホール、中央より少し前くらいが「聞こえにくいスポット」と秘かに呼ばれていることを思い出し、愕然としました。

text by マサコさん

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