登場人物の一人、木田美恵には、中学生の時に出会った同い年の夫と、2歳になる娘がいる。ある日、美恵は文具店で高校の同級生、箕輪哲郎を見かける。世間とは違う時間を生きているような「映画に出てくる、復員兵みたいな」風貌の哲郎。その瞬間、美恵の中に8年前の、教室で不意に哲郎が話しかけてきた時の記憶がフラッシュバックする。彼は美恵に「杉山さんって、なんか時々先の季節にいるよね」と言う。「5月から12月はすごく長いけど、9月になると1日1日が短くなる、っていう歌がある。その9月にもう、一人で先にいるみたい。もう全部が終わったことみたいに、自分の物語を読んでる醒めた読者みたいに」と。それに対して美恵は、「それ、でも、箕輪君もじゃない?」と返すのだ。多分、その哲朗の一言によって美恵は「自分が生きる時間」の存在に一瞬気づきかけ、「自分と共通する時間を生きているような」他者として、哲郎を認識したのだ。
8年の歳月が過ぎ、あの頃と変わり果てた哲郎を見かけて以来、美恵の脳裏からは哲郎の残像が何度も繰り返される。自分は今何月にいるのか。もしここが5月なら、そして哲郎となら、5月を、5月のままに、しっかり味わえるのではないかと。
結果として、美恵は残像の哲郎ではなく、目の前にいる夫と娘とともに「今までと同じ時間」を生きていくことにするのだが、何を隠そう、その、自分とは異なる時間を生きているような「残像の哲郎」的なるものに片想いをして、目の前の生活を思い切り捨ててしまったのが、今この感想を書いている自分である。先の5月の例を出すと、自分が生きようとしたのは季節を3周ぐらい繰り返した先の5月。それまでとは全く異なる、別次元の時間にいきなり身を投じたのだから、それまで同じ時間をともにしていた目の前の人に多大なる精神的苦痛を与えてしまったことを本当に申し訳なく思う。でも、実際にそれから3年経って、「あのとき自分はこれを求めていたんだなあ」とやっとわかったことも事実だ。そして、別次元の時間に身を投じるには、「残像の哲郎」的な強烈な呼び水がないと無理だったろうな、とも思う。もちろん、本作中においても「残像の哲郎」は美恵の幻想でしかないので、現実に彼と再会した際に、美恵の夢はパチンと弾けるのだが。
それでも人は、あえて「季節を3周ぐらい繰り返した先の5月」に飛び込まざるを得ない時もあるんじゃないかな、と思う。結婚した1年後に不意にいなくなった初村聡志の妻、とき子も、きっとそうだったのだ。彼女も聡志とは違う時間軸に身を投げ、別次元の時間を生きる存在となったのではないか。
目の前の人と歩みを合わせて、「同じ時間」を生きていくことは、幸せだ。美恵は自身の生活を「退屈」と表現するけれど、それはイコール「幸せ」ということだ。「退屈」は「幸せ」と表裏一体なのだ。幸せな退屈の反対側にあるのは、孤独な熱中だろうか。本来全く異なる時間を生きる他者が、お互い孤独に熱中しながら、ともに同じ時間を生きていくことは可能なのだろうか。私には、それがとてつもなく難しいことのように思える。
初村聡志は言った。「生きていくのって……、なんか、長い片想いみたいなもんやね」と。そうだよ、聡志。「自分にない何か、ここではないどこか」を追い求めてしまう現代人の病が、その片想いだよ。早く、出て行ったとき子(=時子で、「今」はわからないこと、「今」の意味みたいな「時間」の暗喩でもあると思う)ではなく、自分の目の前にいるニーナをしっかり見つめることから始めなさい。って、人には言えるんだなあ。
2018年12月1日(土) 扇谷記念スタジオ シアターZOOにて観劇。
投稿者:松田仁央
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