無意味なことは不幸なのだろうか 札幌文化芸術劇場hitaruオープニングシリーズ事業 『ゴドーを待ちながら』

「二幕からなる喜悲劇」の副題を持つにふさわしく、二人の掛け合いに笑い、首をひねる。
心の中で、「意味を考えない考えない……」と、呪文のようにとなえながら。

サミュエル・べケット『ゴドーを待ちながら』。札幌文化芸術劇場 hitaru クリエイティブスタジオの演劇としてのこけら落とし作品だ。

と、言いつつ、わたし自身は、タイトルと、不条理劇の代表作として、とても有名な劇である、ということくらいしか知識がない。とにかくまずは素直に観てみようと思って臨んだ。

会場を斜めに走る一本道。そこにあるのは裸の樹が一本だけ。

上演から数分で斎藤歩、納谷昌大、二人の額からおびただしい汗が、床に滴り落ちる。台詞の訳のわからなさよりも、その様に目を奪われる。

最初から「わかる」ことは手放しているので、かみあわなさをそのままに笑える。

昨日(16日)観た、Sapporo Dance Collective 【HOME】では、言葉で伝えきれない思いをカラダで表しているのだろうかと思った。でも、この劇では、言葉を遣いながらも、最初からその意味や真意を伝えることを放棄してしまっているのか。本当は伝えたくて渇望しているのかもしれないけど。(いや、そんなこと思ってないのか?)

昨日、今日、明日。
いつなのか? ここがどこなのか?
無為に繰り返されるのは、確かに虚しいことなのかもしれない。

でも、最後に、何故か泣きそうになった。
果たして、いいことも楽しいこともなく、腹を空かせ、絶望しながらも日々を繰り返すことは……無意味なこととは、不幸せなだけなのだろうか。

この札幌で、あの二人は、あきらめながらも繰り返そうとしていた。
たとえ伝わらなくても、命を繋ぎ、手放してしまわないこと。
辛かろうが繰り返すことができるのは、幸せのひとつの形なのかもしれない。

繰り返すことすら出来ないことだってあるのだから。

そんなちょっとした希望の物語にみえてしまった。

札幌の街で、自分の生まれるずーっと前に作られたこんな作品を生で観られるなんて、すごいことだなぁと思う。こうして、ベケットの肉体が無くなってしまっても、作品は世界中の演劇人によって、様々に解釈され、演じ続けられる。永遠というものがあるとしたら、こういうことなのかもしれない。

自分の街で世界を感じることができる、これほど幸せなことはない。この劇がその幸せの口切となることを願ってやまない。
 
 
2018年12月17日 19:00  札幌文化芸術劇場 hitaru クリエイティブスタジオにて

text by わたなべひろみ(ひよひよ)(ゲスト投稿)

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