お芝居もステキ・舞台セットもステキ『二人で狂う・・・好きなだけ』

舞台は内戦の真っ最中。アパートの寝室には男と女。連れ添って17年になるにもかかわらず、お互いを理解し合えず口論する。そのテーマは亀とカタツムリは同じものかどうか、そしてナメクジは亀やカタツムリと同じなのかどうか。その話が一段落すると、今度は暑いのか寒いのかの議論。17年前にお互いに離婚して再婚したにもかかわらず、「出会わなければ良かった」と後悔を口にする男と女。
部屋の外では爆発音が響き、その音が近づいてくる。割れた窓から手榴弾が飛び込んできても口論を止めない二人。
戦闘はアパートのすぐ近くで行われ、鏡台の鏡が割れ、ドアが吹き飛ばされ、壁が崩れ落ちる。アパートの階段に軍靴の音。足音は上ってくるのか下っているのかを巡って口論。
やがて群衆が歌う声が響き、内戦が終結したことが分かる。しかしどちらが勝ったのかを巡って口論をする二人。そんな最中(さなか)、離ればなれになった彼女を探してアパートに来た兵士(すがの公)や、旅行に出かけていた隣に住む夫婦(横尾寛・高子未来)がアパートに来てもすぐに追い出し、家の修復作業に余念がない二人。
屋上から刃物が何かを切り裂く規則的な音がしたと思ったら、壊れた天井から首のない胴体やら、胴体のない首が落ちてくる。そんな中、二人は客席に向かって何かを語り続ける…。

一言でいえば、どうでもいいことを巡って諍いが起き、相手を理解しようせず自己主張するから諍いが起きることを、男女と戦争当事者の二重のシチュエーションで展開するお芝居だった。

冒頭、銃声や爆発音が響いているにもかかわらず亀とカタツムリが同じかどうか口論する場面で、突然、井上陽水の「傘がない」の出だしの歌詞を思い出した(苦笑)。外の世界で何が起きてようとも自分には関係ない、大事なのは自分事という歌詞だ。外で戦争が起きていても、そして人が死んでいても、二人にとって亀とカタツムリは同じ仲間なのかどうかという、極めて個人的なことが現下の話題。しかし、その連想は途中から打ち消された。手榴弾が投げ込まれたり、窓が割れ壁が崩れたり、無関係と思っていたことが身に降りかかる。もはや外の出来事は外の出来事と割り切ってしまうことができなくなる。内と外、別々の動きが交わってしまう。戦争(内戦)はあなたたちと無関係な出来事ではないと警鐘を鳴らしている。

チラシを読めば、この作品は第二次世界大戦から17年後に書かれた戯曲。大戦が終わってもいまだ内戦を続ける人間の愚かさを痛烈に皮肉っているのだろう。
これまたチラシに書いてあったのが、このお芝居は約45分(実際には40分ちょっとだった)。短い時間であっても、絶えずバックグラウンドで銃声・爆発音が鳴り響き、叫び声が聞こえる中で、トゲトゲしく自己主張してしゃべり続ける小島達子さんに、のらりくらりとかわしつつも反論する斎藤歩さんには恐れ入った。変に横道にそれるような(笑いを取るような)会話ではなく、淡々と相手に向かってしゃべる続ける演出は良かった。小島さんも斎藤さんも、その演出にしたがっていたのが良かった。
お互いに張り手(ビンタ)を打ち合う場面(4回ぐらいずつ打ち合ったのではないか)は、背の高い斎藤さんを小島さんが背伸びするように叩いていて客席から笑いを取っていたが、これを毎回やるのはしんどいだろうなあ。

しかし、大団円がいまいち切れがなかったように感じた。実は最後のセリフが聞き取りにくかったという側面もあり、「えっ、ここで終わるの?」というのが率直な感想。
予定調和的で乏しい発想かもしれないが、何もかもが壊れて崩れ落ち、がれきで足の踏み場もない舞台で、しかも天井からギロチンで処刑された遺体がぶら下がっていても、なおも亀とカタツムリのやり取りに戻っても良かったのではないかと思った。

ところで、このお芝居の完成度を高めたのが、舞台美術・音響・照明だった。舞台美術に高田久男氏(セットアップ)、照明に熊倉英記氏(ステージアンサンブル)、音響に冨田昭二氏(ジョータウンスタジオ)、舞台監督に尾崎要氏(アクトコール)が担当した。いずれも存じ上げないが、あれだけのセットを見事に壊したのは観ていて気持ちが良かった。もっと簡単なセットの中でのお芝居だったら面白さが半減していたかもしれない。そして終始お芝居を盛り上げたのが音響であり照明だった。改めてお芝居は役者だけが作るものではないことを実感させられた。拍手。
 
 
『二人で狂う・・・好きなだけ』(作:ウジェーヌ・イヨネスコ、翻訳:安藤信也、演出:小佐部明広) 上演時間:約40分
2019年1月20日14時
シアターZOOにて観劇

text by 熊喰人(ゲスト投稿)

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