ここしばらく、いわゆる不条理劇と呼ばれる劇を見続けている。
別役実、ベケット、今年に入ってイヨネスコ。
そもそも、「不条理劇とはっ!」と意気込んで観ているわけではないけれど、ちょっと構えて観ているのは否定できない。
わからないというのは、怖さにつながる。
だから、不条理劇を観る時は、どうしてもこわごわ、びくびくしながら観始めてしまうのだ。
イヨネスコの「二人で狂う…好きなだけ」を観た。
斎藤歩演じる夫と小島達子演じる妻のしょっぱなに交わす会話から
「はい?? (笑)」となる。
これを笑わないでいられるだろうか。案の定、会場のあちらこちらから笑い声が響く。
砲撃の音が響き渡る中、その音に負けていない、ののしり合いの激しさ。
会話のようで、決してコミュケーションではない言葉のやり取り。
でも、それは相手を陥れようとか、揚げ足をとってやろうとか、そんな意図的なものではない。
ひたすら相手の言葉に自分の言葉を返しているのだけど、それが相手の、自分の、発信する意味とは結びつかないだけ。
そりゃあ、頭に来るし、不毛だ。
斎藤夫はとぼけたようにやりすごそうとする。
小島妻は悲劇のヒロインになりきろうとわめく。
端から見ていると、ほんと、しょうもねえなあと、笑いが出る。
不条理劇とはこんなに笑えるものなのかと、年末に観た「ゴドーを待ちながら」で思った。
そんなにこわいものではない?
不条理劇とは小難しいものだと思っていたのだ。
わけがわからないものだと思っていた。(これはある意味当たっている)
普通の人の普通の話ではないと思っていた。
そのわたしのとらえ方は根本から間違っていた……らしい?
そもそも、人間の不条理さ、ナンセンスな世界を描いているのが不条理劇なのだから。
人間なんて、しょせんぐちゃぐちゃ。
正しく整った人間なんて、いるのだろうか。いや、いないはず。
(そうであると思い込んでいる人間、そうありたいと望む人間はいるだろうが)
理想と不完全さと軽い失望と滑稽さとを右往左往してそれでも死なずに生きてる。
舞台の上に、そんな普段の自分の欠片を見てしまうから、笑わずにいられないのだろう。
貧しいながらも端正に調えられた寝室がドッカンドッカン壊れていくさまも面白い。壊しっぷりの気持ちいいことったら!
これもまた、体裁よく整えた外面(ソトヅラ)があっけなく崩されていく爽快さなのかも。
しょうがない人間の営みを、笑いながら観る……くらいの気持ちでいるのがちょうどいい。
人間なんて、わたしなんて、そんなもんだ。
1月23日14:00 於:シアターZOO
text by わたなべひろみ(ひよひよ)