悲しみが突き刺さる MAM『父と暮らせば』

1月30日14時の回を観た。観終わって、劇場をあとにして、この原稿を書こうと店に入った。

ノートパソコンに指をおいて書こうとしたけど、書けない。さっきまで観ていたあの劇のことを、父と娘のことを思い出すたびに涙が出てしまう。

1945年、8月6日、8時15分。

それから3年たった、ある日の広島、とある家。舞台はずっと変わらない。登場人物はふたり、父と娘。それも終盤まで変わらない。

MAM『父と暮せば』。井上ひさしの戯曲だ。父はあの日、原爆によって死んでいる。しかし娘の想像か(幽霊か)、娘の恋の応援団として姿を現す。

陽気な父の存在で、いっとき舞台は明るく、楽しくなる。だけど娘は人を好きになってはいけないと拒絶する。幸せになってはいけないのだと。

あんなにも可憐で、生命力にあふれた女性(少女のようにも見える)が、生きてることを悔やむ。残酷だ。彼女が語る「3年」という言葉の重み、そのつらさを知って胸が締めつけられる。どれほどの苦しみだったのか。

娘の家は劇中にぎやかだ。陽気で楽しい父がいる。娘も家でだけ心を許し、笑う。だけど現実は違う。父は死に、友人も死に、彼女はひとりで、たたひとり、あの家に住んでいるんだ。

3年間、たったひとり、自分だけが生きてしまったという罪悪感を背負いながら、幸せに背を向け、ずっと、耐えている。

彼女はひたすら内省をつづけていたのだろう。なにかに怒りをぶつけることもなく、感情を外に向けることもせず、内へ内へとこもっていた。

この劇自体がそういう構造だ。戦争のこと、原爆のこと、人間のこと。さまざま語るテーマはあっただろう。訴えたいこと、メッセージも膨大にあるはずだ。なのに、たったひと組、父と娘、その数日のお話。いや、父が彼女の想像だとするなら、いるのはひとり、彼女だけだ。描かれるのも、彼女だけ。被爆し、家族を失った、ひとりの物語。

広島で被爆した人の数は正確にはわかっていない。長﨑の人の数もだ。あまりにもすべてが失われてしまったために数が出ないのだという。それでも推定、広島16万人、長﨑8万人。命が消えた。この劇で描かれた、たったひとつの命の背後には、16万倍、8万倍、人々がいる。

僕の観た回は父・増澤ノゾム、娘・高橋海妃だった(ほかに父役として、剣持直明、松橋勝巳。娘役は松村沙瑛子、山木眞綾[クラアク芸術堂])。

戯曲の構造と同じように劇もまた、外に広げることなく、内へ内へと個人を掘り下げる作りだった。過剰なるものを排除し、丁寧に、戯曲の1文字1文字を表現すれば、必然そこに舞台が立ちあがるはず、という真摯な姿勢だ。戯曲に対する敬意を感じた。

主宰・演出も兼ねる増澤ノゾムは、役者としても同じような姿勢を貫く。人物としてのあるべき姿を丁寧に、忠実に演じることで存在を際立たせる。またそうすることで同じ空間にいる役者を映えさせる。演技が、増澤に反射して戻ってきて、いっそう輝く。

高橋海妃の演じる娘は少女のように幼く、人生のこれからを感じさせる。だからこそ余計に悲しみが突き刺さる。まだなにも知らないような無邪気さの中に、抱えきれない大きな悲しみ、苦しみを宿しているなんて。彼女がその後、少しでも幸せであってくれたら、そう思わずにはいられなかった。

結局3時間、僕は店でねばった。だけど涙で書けなかった。家に帰り、1日、間をおいて、こうして書いた。それでもやっぱり、思い出すと涙が出た。

 

公演場所:シアターZOO

公演期間:2019年1月26日~2月2日

初出:札幌演劇シーズン2019冬「ゲキカン!」

text by 島崎町

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