凄い脚本だ。描かれているのはまさに「私たち」。何かが起きているようで起こらない日々、状況に対する無力、様々な感情の果てに訪れる慣れ、惰性、薄らぼんやりとなっている希望、既に費えつつある渇望。哀れで滑稽で不遜で無様な登場人物4名はいずれも私だった。
シンプルながら広がりを感じさせる舞台美術、そこにいる斎藤歩は惨めでくたびれたエストラゴンの身体そのものだった。札幌の舞台で、照れたり斜に構えたりしたところのない役そのものの斎藤を初めてみたように思う。感動した。が、後半のアドリブが始まるといつもの身体に戻ってしまった。残念。
ゴドーは改変が許されないと聞くが、この上演ではどうだったのか。日本での他例でもアドリブは割と多く、漫才バリの笑いを良しとする意見もあるようだ。串田和美演出では緒形拳が「なんとか大衆演劇にしたかった」と言ったというテキストをみかけた。なぜ? こんなにも普遍的な名作を大衆演劇にする必要があるのか? 「いま・ここ」に着地する方法はそれしかないのか? 演劇が芸術であるというのなら、ご当地ネタの笑いなど入れずに演じてみせてほしかった。客が退屈するならそれも脚本家の意図という可能性もあるだろう。
劇場のオープニングシリーズ、名高い不条理劇脚本、迫力の舞台美術、東京からの強力な助っ人俳優。(哀しみと表裏の笑いが必ず生じるとは思うが)ひとかけらも笑えずわけがわからなかったとしても、客は必ず何かを持ち帰ったはずだ。演出家にとって、演劇と客を信じてみる絶好の機会であっただろうに。観てみたかった。
2018年12月 hitaruクリエイティブスタジオ ※初日観劇
text by 瞑想子