若い人たちには期待してしまう 北海学園大学演劇研究会『いつかの日曜日』

実践経験の無い自衛隊は軍隊とは言えない。しかし自衛隊に米軍の記憶をダウンロードできたら最強の軍隊ができる・・・。
そんな思惑を持つ国家をスポンサーにして研究を進める科学者。被験者の記憶を書き換え、疑似家族を作る。しかし彼の願いは、自分の記憶から妻の死を消し去ることだった。亡くなった妻のクローンを創り、記憶をダウンロードした。本物そっくりだ。けれども違和感が残る。本物の妻の死を自分は記憶しているからだ。
おそらく、この科学者は魂の存在を信じているのだろう。きっと。けれどクローンは創れても魂を創ることはできない。ならば自分の記憶を変えるしかない。そう、彼は出来ないことを悩むより、自分に出来ることをする決断をしたのだ。その先に悲劇が待ち受けているとしても。(実験の経過に不安要素がちらつく!)
物語は疑似家族のハッピーエンドで終わったようだが、そちらは涙で観ることができなかったというのが正直なところ。作品ラスト直前のネタばらしで泣けて泣けて仕方が無かったのだ。誰かに上手く説明してほしい所だが、山崎拓未さんと簗田愛美さんのやりとりは素晴らしかった。(衝撃がデカすぎて台詞まったく思い出せないんだけどね)
家族とは血のつながりか、思い出の共有か、それとも魂の縁なのか?感じたのは、人間は家族を欲する生き物だということ。
良い作品でした。

さて、昨年の『裸足でベーラン』『蛇寿女』そして今回の『いつかの日曜日』。大学生の作品を観てきて、ボクの中で若い人たちへの期待が高まっている。その意味を少し長くなるが書かせてもらう。(何人読んでくれるかな?)

昨年、札幌文化芸術劇場hitaruで上演されたベケットの『ゴドーを待ちながら』は好評だったようだ。
ボクも観たかったのだが恥ずかしい話し懐具合が寂しく断念した。無念さを紛らわすかのように感想ツイートを読んでみた。
読みながら思ったのは「観た人の心に何が残ったのだろうか?」ということだった。
『ゴドー』がどのように受け止められているのか知りたくて、ゴドーに関する本を読んだりネットで調べたりした。
堀真理子氏の『改訂を重ねる「ゴドーを待ちながら」』にあったベケットのレジスタンス運動。顔も知らないメッセンジャーとの危険なやりとりや待ちぼうけの話は「なるほど!」と思った。『ゴドー』はナチスドイツに占領されたフランスで人々が味わった恐怖を表しているという指摘である。
今回の上演で使われた台本は安藤信也氏と高橋康也氏の共訳。
ゴドー受容の初期は実存主義的解釈が主流であり抽象度が高く「わけのわからなさ」がつきまとう「難解な不条理劇」「無と絶望の劇」と解釈されていた。(ふらんす2018年2月号「特集21世紀のサミュエル・ベケット」)
実存主義と聞いて、ボクはある本を思い出した。
岡崎久彦氏の『悔恨の世紀から希望の世紀へ』(1994年)である。
岡崎氏は実存主義文学について「挫折に対する免疫を作った」という精神科医のことばを紹介し、次のように論理を展開する。

十九世紀のトルストイの思想の下に育った世代が、スターリン時代の人間性を無視した無理無体な圧政に下でその生涯を終えて行った悲劇は想像しただけでも、胸が張り裂ける思いがする。しかし、あの世代が、もし、実存主義文学の中で育っていたならば「人生というのはせいぜいこんなものだ」という薄笑いを浮かべて耐えられたかもしれない。そう思えば、実存主義文学は、二十世紀という厳しい時代を生き抜くための悲しい知恵として、おのずと生まれたものと言えるかもしれない。

教養の無いボクはトルストイを読んだことは無いが、言わんとすることは分かるような気がする。ゴドーもまた、「二十世紀という厳しい時代を生き抜くための悲しい知恵」に当てはまるのではないかと感じた。
また、同書で文化大革命の狂気を描いた『ワイルド・スワン』などを例に挙げて暗い時代を述べつつも、「二十一世紀には新しい文化が生まれる」とする。これが若い人たちに期待してしまう理由なのだが、岡崎氏は文化を生み出すリズムについて元禄文化を例にあげる。

元禄の人材はいずれも関ヶ原後ほぼ三十年~六十年して生まれた人々である。親も子も戦争の記憶の無い世代の人々である。
一九四五年から考えると一九七五年から二〇〇五年までに生まれる人、それが三十歳になるころとして二〇一〇年代、二〇二〇年代が黄金時代なのであろう。

ただ、戦後日本の特殊事情として日教組教育から解放された時代に育った世代の親から生まれた子供達の時代とすると二〇二〇年代だとしている。この特殊事情を札幌演劇界にあてはめるとどうなるか?それはボクには分からないが、現在の10代20代に、札幌の新しい演劇文化が期待できるとボクは感じている。
そのためにもhitaruでは、ベケットやブレヒトなど、どんどん上演してほしい。それらの作品から新しい感性を持った若き演劇人が何を学び、どのように活かしてくのか、興味深いところである。

先日亡くなった堺屋太一氏は、ニュースによると日本の先行きに不安感を募らせていたようだ。しかし大きくも小さくも不安のない時代は無い。不安があるからこそ「人生には求める価値があることに疑いのない作品」(岡崎)を観たいし、それを札幌の演劇界で観てみたいのだ!

重ねて言う。
若い人たちには期待してしまう。
のだ!

2019年2/24(日)12:00
演劇専用小劇場BLOCH

text by S・T

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