「物語をつくり、そして語る」 イレブンナイン『はじまりは、おわりで、はじまり』

開場時刻まもなくZOOの階段を降り小屋に入ったら、舞台では役者たちがクスクスと雑談していた。演出だと分かっていても、「ああ、僕にもこんな時代があったなぁ」と、中学2年の時に転校してきた文字通り目の覚めるような美しい少女と少しだけ付き合って、夕暮れの公園で初めてキスをしたこと。我が家の家計ではきっとしんどかっただろう家庭教師を週2回もつけてもらって学区1番の進学校を目指して猛勉強していたことを思い出した。「サラリーマンにだけはなるなよ」と言い続けていた父の姿も目に浮かんだ。普段は受付でもらったリフレットを読んだりして「ふーん」なんて言っているわけだけれど、とてもチャーミングな空間に吸い込まれていた。

僕たちヒトにとって最も古くから存在する表現のひとつである演劇の役割は、「物語をつくり、そして語る」ことだと、僕は思う。ナラティブで、みずみずしく、初めて実った確かな質量を持った果実のような初日を観て、あの頃の僕は、どんな姿をしていたのだろうか。そして、世界で一番大切なものはなんだと考えていたのだろうかと不器用な父娘の情愛の物語が、僕と娘の葛藤の物語と重なった。そして、僕が15歳だったころに抱いていた夢や未来を思った。本作は、札幌市立厚別南中学校の卒業生のために納谷真大が書き下ろした学校演劇で、学校で上演され、実験的に行われた一般公開でも高い評価を得た(主役の野田いろは役は、イレブンナインの宮田桃伽が好演)。初演は新札幌のサンピアザ劇場で、そこそこ小屋も舞台も大きいし、観客がそもそも中学生なので、見飽きないようにといえば失礼だけれど、かなり狙ったお笑いや人物のデフォルメがあって、面白く成立していて、本の狙いは終劇できれいに回収されていて納得したのだけれど、少しあざとい印象を受けたことを覚えている。

再演にあたって、納谷は中高生をオーディションで選んで配役し、札幌座の斎藤歩をドラマトゥルクに迎えた。初演を観ているし、作品の中で見事に役を生きていた宮田のイメージが強く残っていて、物語もイマジナリーラインとしてあったのだけれど、いい意味で見事に裏切られた。不意に劇にアンブッシュされ、少しメンタルダウン気味だった僕の心を強く揺さぶった。両隣の女性は滂沱の涙だった。ZOOの小さな劇空間に凝縮したせいかもしれないけれど、納谷が将来への不安と希望を併せ持った中学生たちのために書いた本は、スクラプティックなトーンの中に巧みに仕組んだ人物の凝ったつくりこみで、思春期の群像と血の繋がりのない不器用な父娘のすれ違う心模様を濃密に描いている。それは、これから希望の光に向かって長い人生を歩む彼ら彼女たちへのエールのように感じられた。また、若い演劇人への思い、演劇をつくることの思いを重ねているようにも思った。

劇場作として改めて観ると、本が実にいい。中高生たちと芝居の責任分界点のようにはさまれる劇中劇の立て付けも絶妙だ。それぞれの人物が背負っているエピソードが、いろはをめぐって一つの線になってつながっていく物語のドライブ感も楽しめるし、さりげなく、でも必然性があって発せられる台詞の切れ味が少しづつ観客の心を動かしていく。ラストシーンのいろはの長いモノローグがひと際秀逸である。一つ一つの台詞が泡立つほどに力強く情感にあふれて美しい。初演では、いろはが最後に取り出す保護者への感謝の作文のかわりに描いた絵は、観客のリフレットに描かれてなにげに配られていて、仕掛けとしてはうまいが説明的だった。これをバッサリ捨てたことが最大の効果を上げていたと思う。納谷は観客の心の中にすでにあるはずの情景を信じたのだろう。いろはがスカートのポケットから取り出して観客に提示する絵は、少なくとも僕からは見えなかった。だけれども、舞台と観客の間に生まれた想像力は絵に描かれている以上の大きなものを見せていた。突然、舞台の奥が開いて満開の桜の中に、いろはが小学3年生の時に亡くなった母の幻が現れ、いろはは「ママ」と声をふるわせる。そして、少し長い間があって、「おとうさん」と初めて血のつながらないどうしようもない同居人に過ぎない存在だと思っていた、自分を見守ってくれていた実存する男をそう呼ぶのだ。ママとおとうさんの間に、吐息のように、だがしっかりと身を置くいろは。物語の最後に発せられるたった一言の台詞が、この劇のすべてを成立させる。いろはは大切な何かに気づき、成長し、一歩を踏み出す。すべてを回収して溶暗した空間に浮かぶのだ。それぞれの親や子の顔が、そして長い時間をかけて紡がれる家族という物語が。

主人公のいろははダブルキャストで、僕の観た初日は赤塚未来のいろはだった。初演でいろはを演じた宮田にとてもたたずまいが似ていたのは偶然だろうか。豊かな素材感があった。もう一人の内崎帆乃香もいろはのクラスメイトの一人として舞台に立っているのだけれど、なるほどと思わせる雰囲気があった。中高生の役者たちに拍手を送りたいと思う。

家族は正直血脈でつながってはいないと僕は思う。互いを思いやって、見守り、見守られ、守られることが家族を結び付けるのではないだろうか。つまり、家族になっていくのだ。死が分かつまで、家族であることは、この劇のタイトル通り、「はじまりは、おわりで、はじまり」の連続で生まれて、育っていく。そう思う。

2019.5.22(水)19:30- ZOO

text by しのぴー

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