言葉が水面に落ちる滴のよう。リフレインされる度に水面下深く沈んで、静かな波紋がゆっくり広がる。この人はいつも舞台で詩を編む。作品が一編の詩なのだ。アクションありのヒーローものも、藤田氏が創るとこうなるのか。
縦横無尽にスライドされるパーティションとプロジェクションで創り出されるCITYの空間。暗闇と灯、光と影、白を基調にした衣装。スタイリッシュで都会的である上、ベタに正義と悪を象徴させるわけでもなく、プロジェクターで色も自由自在、キマっている。パーティションの動きと役者の動き、いずれのタイミングが1秒ずれても失敗するような緊張感で、フラッシュバックのように映しだされる情景。小気味好くテキパキと移動するパーティションが、部屋、通り、窓、ドア、と空間を自在に創り出す。俳優、大道具、照明、音響、衣装、それぞれが完璧に合わさって織りなす舞台。演出の匠といおうか。主人公を演じた柳楽優弥氏はクールにシャイに、実にいいバランスで演じていた。
ある「施設」で特殊な戦闘能力を引き出された若者たち。主人公の「ぼく/おれ」は、妹とともに親に捨てられたらしく「誰の子供でもない」。悪役?は母親に折檻され続け母親を殺したらしい同じ施設出身者。ちょっと大げさに言うならアメリカのテレビドラマのエージェント・オブ・シールズとかスーパーナチュラルみたいな人々。クライマックスで目の前に繰り広げられるのは、妹を救おうとする主人公と仲間の激しい闘いなのだが、なんなんだ、暴力とアクションの場面にも漂うこの悲哀は。繰り出す必殺技?の一つ一つが孤独を叫んでいるようだ。
さて心に残ったリフレインされるセリフの一つ。兄妹の会話、多少、原文と違うかもだがご容赦。
「さあ帰ろう」
「帰るってどこへ?」
「どこって・・・」
「帰る場所なんかないくせに」
「・・・なんだよぉ」
帰れるって幸せなのだと、心に沁みた。ラストの主人公の死は夢から醒めたようでショックだがほっとした気もした。切なさと不条理とともに、ある種の解放感があった。さても日常を生き抜くのは、大事を成し遂げるより難しいとも言える。歩道を歩いていても車が飛び込んで来たりするし、オフィスタワーに飛行機が突っ込んだり、どこかで爆弾が爆発したりする昨今だ。
彼らは、この都会で、自分の力を信じて、自分の力を砥いで、何か世の中にできることがある、きっとやってやる、と心に秘めて日常を生きている。不確かながら、自分が信じたものが、誰かに、いつか、伝わる、と信じて、あるいは、祈って。藤田氏が来札の際、もう北海道には戻らないと決めて東京に向かった時のことを話していたのを思い出した。このヒーローたちは、都会で、日常の仮面の下にそんな情熱や野望を秘めて生きる人々の、日々の闘いを想像させる。「なにか」価値あることをしなければ、「なにか」成し遂げなければ。一旗上げねば故郷に錦を飾れぬ。この言い知れぬ動機。彼らは、会社員かも、起業家かもしれないし、バイト中の俳優か芸術家かもしれない。目的は、社会正義なのか、歴史を変えるのか、金儲けなのか、様々だろう。何が正解なのか、どこへ行けばいいのか、誰が待っているのか。この孤独と自負、日常の先には何があるというのか。答えはない。だけど、だから、自分がこれだと思うものをやってみるべさ、やってみるべよ。一度きりの人生だもの。最後は、人はなぜ生きるか、という哲学まで続くこの作品。
「なにかを灯さなければ
なにかを灯すために
たとえば生きなければ」 (by 藤田貴大)
2019年5月23日 彩の国さいたま芸術劇場大ホールにて観劇。
text by やすみん