2018年4月ー2019年3月の記憶に残る作品

2018年4月ー2019年3月の記憶に残る作品

1. 「民衆の敵」イプセン作 ジョナサン・マンビィ演出 シアターコクーン・オンレパートリー

一昨年の「るつぼ」に続き、マンビィx堤真一の作品。前回同様、人間いかに生きるか、というテーマがありながら、何よりも「民衆」の怖さ、「正義」の苦しさを感じた一品。ストーリー的には、内部告発者が社内で憎まれる成り行きが、町ぐるみで起こると考えればよいかと。堤真一、段田安則、外山誠二らが安定して見せる演技はさすが。しかし凄いのは、第2の主役とも言える「市民」役の一団だ。子役から年配者まで老若男女様々な市民が、時に群舞のようなパフォーマンスを披露しながら登場する。そして感心するのは、集団としてとらえられるこの25名からなる「市民」一人一人に名前があり、職業があり、性格の特徴があり、個々の登場人物としているイプセンの視点である。市民Aや漁師、という役名ではなく、ちゃんと名前がある。市民、民衆とは、得体の知れない漠然としたものではない、そういう個人からなる集団なのだと今更ながらに思い知る。昨今のSNS炎上などは、姿も見えず一層不気味ではあるが、個々の個人の仕業には違いない。主人公トマス・ストックマンに対する憎しみが民衆に芽生える瞬間を、舞台に敷き詰められた石を拾い(舞台上にはいないトマスの後ろ姿に向かって)投げつける動作で表現していたのが、人間の闇の立ち上がりを見るようでゾッとした。最初に石を拾ってなげたのは、若い男でも酔ったオヤジでもなく、上品そうな老婦人だったのは心憎い演出だった。(2018年12月1日 シアターコクーンにて観劇。)

2. 「出口なし」サルトル作 小川絵梨子演出 シス・カンパニー

大竹しのぶ、多部未華子、段田安則による密室劇。「地獄」という設定の鏡のない部屋。何やら罪を犯したらしい互いに見知らぬ3人。「地獄とは他人だ」の名言を残したサルトル。自分という存在は他人を通してしか認知できない。違うの、私はそんなんじゃない、誤解だ、と叫んでも虚しい。鏡がなければ、私ってきれい?と他人に問うて反応を見るしかない。では「自分は自分だ」と他人と関わらず生きていくか。はて、そうもできない人間たちを、皮肉、ユーモア、憐憫、愛情で描く、なんだかオシャレな一品。3人いると必ず2対1になる、とは、アメリカのある学長さんも学生寮の部屋割りについて言っておられた。劇ではそのバランスシフトが面白い。(2018年9月15日 新国立劇場 小劇場にて観劇。)

3. 「轟音、つぶやくよううたう、うたう彼女は」関戸哲也演出。空宙空地

観劇後に感想文を揚げたので詳細は割愛。TGRで受賞し、演劇シーズンで再演が決定しているので宣伝をかねて。ベタベタのお涙頂戴にせずさらりと等身大。このタッチが奥深い。なぜか、「キットカットを割らずに食べる女」のくだりも頭に残っている。

4.  記憶に残るラストシーン特集(そんな企画はない)としては、シアターコクーン、フィリップ・ブリーン演出、三浦春馬主演の「罪と罰」のラストシーン、振り向いた春馬くんが罪を告白するのか、と息を呑んで次の言葉を待つ間に暗転!という「やーん!」という凄まじい余韻を残した瞬間。そして演劇シーズンでの、弦巻楽団「センチメンタル」のラストシーンの主人公による号泣。もう彼のように純なことで泣けない自分の穢れを感じた瞬間。同時にワーズワースの詩「草原の輝き」を言い訳のように思い出した瞬間。ーー草原の輝き、花の栄光、その時間を取り戻すことはできない、だが嘆くことはない、その奥に秘められた力を見い出すのだーー。昨年はこの同じフレーズを、藤田貴大演出の寺山修司「書を捨てよ、町に出よう」でも思い出した。寺山の生きた昭和。「あの時代」は戻らない。しかし残された力は、姿形を変えて存在する。まもなく平成も終わる。平成から我々は何を見い出すだろう。

2019年3月30日

text by やすみん

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