「本を捨てて、町に出ようって言う人がいるんだよ」
40年程前、小学生の時に担任の先生がそう言った。どんな話の流れだったかは全く覚えていないが、今にして思えばこれが寺山修司を知った初めてである。その先生は、教室に楳図かずおの「漂流教室」を持ってきて読ませてくれたりとユニークな方だった。そんな先生が有りがたい?雑談をしてくださったのに、その後寺山に接することなくボクは中年になってしまった。しかし観劇するようになり、避けては通れん!ということで去年は寺山に関する映画を観た。いろんな人が寺山の事を語り、「国家転覆を考えていた」とか「アナーキスト」とか言っている。国家が転覆したら嫌だなーと子供のような感想しかボクの中からは出てこなかったけれど・・・。
さて、観劇前に角川文庫の『戯曲青森県のせむし男』と久保陽子氏の論文『寺山修司「浪花節による一幕 青森県のせむし男」』を読んだ。その論文には、天井桟敷新聞に掲載された観客のアンケートが紹介されていて、
「みんな笑っていて健康でした」「とてもおもしろく、よく笑った」とあった。
当時の観客には「浪花節というと日本人の情感のもっとも古い部分をえがくものだと思われているのに、それをパロディに使ったところ」などをニクイねぇ!と受けとめる感性があり、生き別れた母子が再会する演劇で、役者に「いつも瞼の母ばかり」と語られたら、映画にもなった長谷川伸の「瞼の母」が頭に浮かびもしたのだ。
単純におどろおどろしい演劇かと思っていたが、どうも違うようである。
とは言っても、それらの造詣を深める時間も無く、いざ観劇。事前に本を読んでいったからかもしれないが、本来のテキストに加えられた部分が、物語のリズムを壊しているようにも感じた。和讃「地蔵菩薩」にたどり着くまで、どれほどの時間を要したのであろうか。この時点でちょっとテンションが下がってしまった。
「地蔵菩薩」といえばト書きに「桃中軒雲右衛門の節まわし」とあって、どうするのか興味があった。それについてはジャンベ・縄文太鼓の佐藤夕香さんの出で立ちが、その解答ということで良いのだろうか。(似ていたと思いませんか?)
また、あるト書きには「大正時代の額縁入りの記念写真のように」とあり、本を読んだ人なら分かる遊び心のある演出はにくらしく思えた。他にも細かすぎて伝わらない演出があったかもしれないと思うと笑みがこぼれる。
だが三木美智代氏がd-SAPのインタビューで述べた、寺山修司の言葉を「身体で表現したい」という試みが成功したかといえば疑問が残る。本来のテキストから離れたり戻ったり、そしてダンスによっても物語が寸断されているように思えたからだ。
とはいっても、オリジナルの「青森県のせむし男」を観て昔の観客のように笑うことはボクにはできないだろう。これからも浪花節を身近なものに感じるまで聴くことはないだろうし、<母もの>映画に親しむこともないだろう。ダンスによる演出という方向性は今の時代、間違ってはいないのであろう。
それにしても本来のテキストには無い、あのラストは何だったのだろうか。あっけにとられ記憶が曖昧なのだが、松吉の名を呼びながら仏壇の扉を開けるマツの姿。寺山が描いた子に対する母の情愛を否定するかのような、せむし男を産みたいと仏に祈ったマツとは別人である。途端にボクの思考が停止して、仏壇から出てきた松吉が何を語ったのか覚えていない。恐らく、こしば氏の「エンタメ的寺山作品」という言葉だけであればボクは混乱しなかったかもしれない。しかし三木氏の「寺山の言葉を届けたい」という思いが頭にあったため、ボクの思考回路が混乱したのだ。「このマツはありえない」と。そうはいっても寺山の詩か何かだろうから、「無知で考えも浅いな!」とボクを罵ってもかまわない。どなたかラストの松吉の言葉に焦点をあてて感想を書いていただけないだろうか。「そういう意味、意図で言葉をはめ込んだのか」とボクをスッキリさせてほしい。寺山の事を何も知らず、観劇の感想を語り合う友達もいないボクを憐れんでおくれ。
2019年8月11日(日)14:00
北海道立道民活動センターかでる2・7
追伸
『オイディプス王』はせむし男と比較しながら読むことによって、大変面白く読むことができました。
text by S・T