※この投稿は富良野公演の感想です
タイトルを見たとき、普通は「愛を書く」または「愛で書く」でしょ? と思った。
チラシの作品説明も微妙にわかりにくく、あんまり冴えない。モヤモヤする。
いざ観劇したら、ぼんやり座る男と、男に一方的に話しかけて元気を押し売りする女のシーンが続く。最初の20〜30分は忍耐。「妻」の登場まで物語がサッパリ動かず、「いっそここからスタートのほうがいいのでは?」などと思ったほどだ。
市民劇団の劇団員という設定もいただけない。劇作家は「戯曲が書けない」ということを作品に出しがちで(少なくとも札幌では)、そういうネタにはウンザリしている。演劇の喜びや効力を語られると「それはアナタたちの物語で、私には関係ない」と、いつも思ってしまう。
小ネタでTPPを出すのも、農業オタクの私には気に入らない(※農業オタクについてはリンクの記事を参照)。薫の「女性は大変」の主張には共感したけれど。
しかし。
後半に入ると「あれ?」「ああ!」「なんてこと…」「そうだよね、そうだよね」というシーンが続く。
気が付いたら前半のストレスを忘れ、ピースが次々にはまって見えてくる全体像に驚きながら、怒濤の展開に押し流されている。
ようするに何を書いてもネタバレになってしまうので、各種リリースの作品説明は大変にボンヤリしていたのだ。
回想、劇中劇、妄想、さらに劇中劇。その中の虚構と現実。
現実!その重さ。生きていくことの重さ。悔いても悔いても取り返しが付かず、それでも生きていくしかない現実。
『愛の書く物語』は誰もが経験するタイプの人生の苦しみと、その昇華を描いた作品だ。
そして「作者の言葉」にあるとおり、「あまり堅苦しくなく、テーマは重くてもエンタテイメントに仕上げた」作品になっている。
深い悲しみの中で、人はよく笑う。悲しみを共有した観客たちも、最後は笑顔で拍手をするという趣向だ。
ところで。
公演後、作演の太田竜介さんは「難しくてわかりにくいのではと心配」というような発言をされたので、私は驚いて「そんなことはないですよ」と答えた。
しかし、上演中は涙ぐんだりうなずいたりして観ていた年上の同行女性(テレビのサスペンスドラマ好き)が劇場からの帰途で、「劇団ふきのとうって、ここの劇場の人?」と発言したのだ!! そして思い出せば、ラストの挨拶シーンで、客席からチラホラと似たような言葉が出ていたような…。
『愛の書く物語』は、「ここで終わるかな?」と何度か思わせながら、虚構を含んで続く展開になっている。その点が特に、前述の女性のようなタイプにはわかにくかったのだろう。ついでに書くと、私には不要と感じられるシーンも多い(ダンスとか挨拶とか)。窓を開けて終わる、などのほうが好みだ。
しかしながら、作演家があのようにしたかった気持ちがわかる気がして、私は作品丸ごとで「よし」と受け止めた。
つまり、『愛の書く物語』は、特定の誰か(たぶん演劇に近しい人)に伝えたい想いが込められている作品だと思うのだ。その「誰か」は私ではない(が、確かに普遍的な物語があるので私にも届く)。
作者はどうしてもあのように描きたかったのだ。私が余剰と思う部分は「誰か」には伝わる、「誰か」には必要な内容なのではないか。そう感じた。
けれど、混乱する人がそれなりに出るのは作者の本意ではないだろう。とすれば、挨拶はなくてもいいのではないか。
アナタはどう思いますか?
とりあえずワタシは冒頭からもう一度、諸々を確認しつつ観てみたい。
※11月2日に札幌、5日に帯広、10日に当麻、15日に鷹栖、18日に上富良野で上演されます
追記/作演の太田氏は、導入部やラストを変更して札幌公演に臨む模様。どんな作品になったのか…?アナタの感想投稿を求む。
「札幌観劇人の語り場」ゲスト投稿について
2019年10月27日14時
富良野演劇工場にて観劇
text by 瞑想子