作・演出 渡邉ヨシヒロさん。
長頭症で新興宗教2世信者のヒロインが、その外見や戒律のせいでイジメにあったりする物語。
「あなたなら、そんな方に、そうなる前に、どう手を差し伸べてあげられますか?」
パンフレットには劇作家からの問題提起があった。
問題提起してくれた劇作家さんに申し訳ない、とは思いつつも思想を選ぶことが出来なかった二世信者さんの苦しみにボクがアドバイスできることはない。それはその苦しみを克服した二世信者さんにしかできないだろう。ボクが語れるとしたら、ボク自身が宗教に対してどのような見方をしているかだ。
ヒロインが、好きになった人をいじめる3人組をこらしめようとするが誤って殺してしまったと思い込む。(実際は違った)自分を許す事が出来ないヒロインは「辻褄が合わないんです!」と宗教の教義と他の教会の牧師の意見と自分の解釈をこねくり回した結果、さらに殺人を犯そうとするのだがボクには良くも悪くもその論理が理解出来なかった。(台本確認したい!)
「教会の会衆は、いくら大勢であっても所詮は内輪の集まりにすぎない」
カントの言葉である。(『啓蒙とは何か』)世の中いろんな宗教がそれぞれのルールを持っているが、それはあくまで内輪のルールであり他の人達に押し付けることはできない。国家としては内面には介入せずに法律を共通のルールにして行動を規制するしかない。どんなに理屈をこねまわしても殺人が肯定されることはない。
刑法第199条
人を殺したものは、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
人を殺してはいけないとは書いていない。
人を殺したらこのような罰則がありますよ、と書いてあるだけ。
デモクラシーは内心の規範にはタッチしない。それが思想、信仰の自由。各人の思想、信仰の自由があるというのは、それがあることを前提としていて、何もありませんという人間が出てくると、ちょっと方法が無い制度がデモクラシー。
なんてことを山本七平氏は著書『宗教について』で指摘している。20年以上前の本だがこれを読んだ時のもどかしさといったら!いや、今でももどかしく思う。人を殺せば罪にはなるが、人を殺してはいけないとは書けない。政府が国民の内心の自由に口出し出来る訳がない。みんなが休日には教会やお寺にいってありがたい話を聞くわけでもない。いっそ全部私立にして「自由に道徳教育してください」と出来ればいいのかもしれないが、そんなこと出来る訳がない。
「許し」といえば以前『ペテロの葬列』というテレビドラマを観たときは感動した。イエスが捕まったとき三度イエスのことを「知らない」といったペテロがイエスの後継者になったというような話を、それはそれは感動的に描いていた。キリスト教の「許し」に圧倒されて、もう少し勢いがついていたらボクはクリスチャンになっていただろう。そのドラマに出ていた「あの富美加ちゃん」がもういないのは残念。
正直にいうと上演の2時間弱、苦痛でした。面白く思えなくて。(千秋楽、牧師役の方の喉の調子が悪く、セリフが聞き取りにくかったのも一因?台本確認したい!)作風としては嫌いじゃないし聖書の引用もきちんとしていて好感が持てたのに。何故だろうと試しに種本の一つと思われる『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』を読んでみた。(ネタはかなり使われていた)なるほど、同じように苦痛だった。きっと2世信者の問題にかかわるのは大変だ!とボクの防衛本能が働いて苦痛に感じたのだろう。
「北朝鮮にカルトは存在しない」と誰かがいっていたが(ネットで読んだ記憶があるが見つけられなかった)、カルトが存在している世の中はある意味幸せなのかもしれない。
とりあえずケヴィン・コスナーの「パーフェクトワールド」を改めて観たいと思ったのでした。
2019年11月10日(日)14:00 演劇専用小劇場BLOCHにて観劇
text by S・T