僕は年明けすぐに父を亡くした。2回目の脳梗塞から約6年半にわたる闘病生活だった。母にとって、また近くに住んでいる妹にとってはとても長い介護、看護だった。父の最期を看取ったのは妹で、思ってもみなかったけれど、今わの際の父の様子がLINEでリアルタイムに送られてきた。急いで帰宅する列車の中で、僕は大声でスマートフォンに向かって、多分叫んだと思う。ずっと言えなかったことだった。列車から降りて、テレビドラマのように男泣きした。僕は高校を卒業してから、父もそうだけれど両親とは年に2回の大阪への帰省時にしか会話していない実に親不孝息子である。臨終には間に合わないととっくの昔に腹をくくっていたはずだけれど、埋めがたい喪失感は今も僕に問いかけ続ける。人生ってなんや。家族ってなんやねん。なんのために生きてんや。誰のために生きてんねん。
札幌の演劇シーンにまったくいないタイプの芝居と役者で、作劇スタイルや台詞一つひとつにも強い作家性を感じた。空宙空地(クウチュウクウチ)とは簡単に読めないけれど、名古屋を拠点に活躍する作・演出の関戸哲也と役者おぐりまさこの演劇ユニットだそう。チラシによれば、「テンポの速い言葉の応酬やリフレインを操り、巧妙に張り巡らされた伏線でラストまで心を掴み続ける、ドライブ感満載の会話劇で劇作・演出・俳優共に人気を博している」「独特のスピード感とリフレインを用いたジェットコースターヒューマンコメディドラマ」とある。本作「轟音、つぶやくよう うたう、うたう彼女は」(このタイトルいいですね)は、地元名古屋の市民芸術祭2016で特別賞、札幌劇場祭TGR2018で優秀賞を受賞した作品で、とても期待値を高くして観に行った。
役者がツッコミを入れながら状況が、時制がどんどん飛んでいく。観客の想像力をヘアピンカーブに例えれば、ギリギリまで攻めるような速いテンポが楽しい。美術のしつらえもセンスがあり、皆さん気が付かれたと思うけれど、母(おぐりまさこ)と娘(米山真理。この女優さん、とっても好きなタイプです)の衣装にも演出の意図を感じた。これだけてんこ盛りして70分で収めるのだからすごい。こういうコメディは札幌の作家には書けないだろう。恐るべし名古屋文化。若い頃の村上春樹が安西水丸らとディープな旅をしただけのことはある。
ここからはとても個人的な感想を書きたい。僕は小屋に入るとまず舞台の美術の立て込みを観る癖がある。勝手にどこで「劇」が起こるのか想像する。それを手がかりにして、可能な限りマスターショットで舞台を観ることのできる席に座るようにしている。チラシは基本読まない。本作でいえば「母と娘の物語」くらいな感じでいい。まっさらな気持ちで劇の始まりを待つ。だから客電が消えると本当にワクワクする。物語の冒頭で、この芝居は大回想の立て付けでつくられていることがわかる。つまり、芝居は物語の発端である過去へ遡り、終幕にはもう一度このシーンにつながって劇がなだれ込んでエンディングを迎えることが想像される。そうすると本当に大まかな物言いで申し訳ないけれど、母と娘が相似形の生き方をすることや、象徴的なシークエンスや台詞が別のシチュエーションでリフレインされることにも納得がいく。つまり、僕のイマジナリーラインの中で物語は収まったわけだけれど、たっぷり堪能することができた。
とても印象的だったのは、パートのおばちゃんたちの、かなりべージを割いて書かれた、まったりと肌にまとわりつくような濃密なくだりだ。札幌の作家が書けないと言ったのは、このシークエンスの秀逸な会話劇、台詞の応酬にある。このリズムやパンチ感は札幌のようなミニ東京からは出てこないだろう。実際、観客の中で近所のスーパーの総菜コーナーとかでパートタイマーをされた方はいただろうか。観客が感じる「あるある感」はおそらくテレビドラマのステレオタイプ的刷り込みもあるだろうけれども、「近所のスーパーでパートしてるおばちゃん」という人物に対して無意識のバイアス、つまり偏見というレンズをかけて観ているはずなのだ。でも、轟音が聞こえる踏切あたりまでついて来るおばちゃんたちは実存ではなくて、主人公の「私の人生、こんなものなの」という嘆息であり、諦めであり、切なさであることが分かる。だから、母よりも娘の時の方が、おばちゃんたちはつらく当たるし、底意地が悪い。いわば本編を割いて大きくハイライトされた出っ張りのような芝居のリフレインに、母と娘をつなぐ人生の哀歓がある。
器用に伏線を張り巡らせた芝居ではないと僕は思うし、回収されないパーツもかなりある。心象もきれいにつながっているとはいえないかもしれない。お雛様の話はどこに出てきたっけと思ったし、あれ、あれと言っているうちに劇から去ったはずの夫が、踏切の中で電車に撥ねらそうになった妻を間一髪で助けたり、夫(父)の探し物の回収も、それはちょっと強引だろうと思った。ずっとあれから天国から見守っていた、なんて情緒が過ぎる。そもそも、情緒的に終われるようなそんな母娘だったっけと思わなくもなかった。
だけれど、と思う。この芝居の奥行は、そして観客の心を最後まで引っ張っていくのは、作家が僕たちに差し伸べる、生きていくことに対する質感や実感だと僕は思う。心当たりがあるのだ。だから、えらく心に響く。僕たちはなにか特別な人生を生きているわけではない。僕たちは、あっという間に大きくなって、あっという間に結婚したり、子どもができたりして、家族が増えて、親の老いを見送って、死んでいく。あっという間に。多くの場合において僕は、自分がしたいことを最優先して、家族をないがしろにし、現実から逃げて見て見ぬふりをしていた。親の寂しい気持ちにも寄り添えなかった。そして、いざ自分がその年齢や立場になってみて、ようやく気付くのだ。家族であることの、親子であることが当たり前に一番に確からしく、大切で尊いことを。自分の人生の一部を犠牲にしたとしても、やらなければならないことがある。一度きりしかない人生という時間や自分自身という限りある資源の配分を間違っては、きっと幸せにはなれないのだろう。
僕は霊魂とか死後の世界とかまったく信じてはいないけれど、記憶という古い井戸の底に眠っていた若い頃の父がよく夢に出てくる。「お父ちゃん」。そう叫んで、今でも起きてしまう。「思い出のアルバム」がメランコリックに鳴る中、僕は母娘の姿を父と僕に重ねて観ていた。育ててくれてありがとう。お父ちゃんの息子でよかったわ。それが最期に父にかけた僕の言葉だった。
2020年2月3日(月)19:30- コンカリーニョ
text by しのぴー