作・演出 伊藤樹
とある人形師と、人形にまつわる物語。 札幌演劇界において、あまりにも異質な作品だと思った。
「私としてはこの話は100万回生きた猫だと思ってるんですよ…」観劇前に出演者のツイートを見て分かったようなつもりになっていたが甘かった(これは演じた方だからこそ言える言葉)。伊藤氏のツイートを見ると、この作品に関する泉鏡花の情報量が半端ない。うかつに感想を書けば的外れすぎて恥ずかしい思いをしてしまうと恐怖した。
伊藤氏がファンである泉鏡花という井戸を掘り続け、湧き出たものがこの作品なのだろう。小説もまともに読まないボクであるから、鏡花は難解で本当に触れた程度。だからこそ異質なものを感じるのか。その異質な世界から発せられる何かがボクを圧迫した。身体ではなく魂が圧迫されるような感覚。もし身体と魂が重なり合っているなら、魂だけ数センチ座席にめり込む感覚とでもいったらよいか。泉鏡花は伝説や伝承を取り入れ、他界を描いたというが、そのエッセンスを吸収した伊藤氏が創る世界の力なのであろうか。
伝承といえば『ミッドサマー』という民間伝承を材料にした映画を観た。美しく怖ろしい作品だったがカメラワークや幻覚効果の映像で乗り物酔いのようになり、また観たいとは思わないのだけれど。それはさておきミッドサマーと言えばシェイクスピアの『夏の夜の夢』で、それについてのエッセイ、チェスタトンの「夏の夜の夢」をボクは連想した。チェスタトンはそのエッセイで、ヨーロッパではピューリタ二ズムにより陽気で健全な迷信を投げ棄て、代わりに病的で危険な迷信が残ったという。舞台はアテネではあるが、シェイクスピアは夏の夜の夢でピューリタンに壊される前の古き良きイギリスを描いたのだ。だからボクは映画のミッドサマーを観た時、「ピューリタンによって迫害され野蛮な伝承が残った集落」をイメージした。『ミッドサマー』の怖ろしさは、未知の異教の風俗にふれることにあるのだが、この異教に対する恐怖は日本にも向けられたことがある。先の大戦、元アメリカ大統領のパパブッシュは戦闘機乗りで墜落し海を漂った。「日本兵に捕まったら喰われる」と思ったと何かの雑誌で読んだ記憶がある。『東方見聞録』でも読んだのかもしれないが、日本はそんな怖ろしい国だと思われていたのである。日本人からみればバカバカしい話なのだが。
幸い建国以来、日本の伝承がピューリタンによって破壊されることは無かった。鏡花もミッションスクールに通ってはいたが、観音力と鬼人力の超自然力を信じた。鬼人力を畏れ、観音力の加護を信じた。その鏡花が描きたかったものは何だったのか。
泉鏡花記念館の館長、秋山稔氏によると「鏡花の描く他界は、美しくて怖ろしいだけではない。他界は、俗物の跋扈する現世を批判する根拠であり、現世で虐げられた美しい魂の持ち主を救済する場所でもあった。」とする。ボクには秋山氏の解説が、そのまま『散ル 咲ク ~わらう花』の解説になるのではないかと思える。
この公演は新型コロナウイルスの影響により、上演を断念、延期される劇団も多い中で行われた。こみ上げるものがあったのか、終演後の挨拶で伊藤氏は言葉を詰まらせた。最終日のカーテンコール、役者の中には普段の公演では見せることのない表情をしていた方もいた。上演してくれて、ありがとうと言いたい。そして今作は8月にはDVD化される予定である。ウイルス対策により観客数を抑え、収益はよろしくないはず(再観料も安くて申し訳なかった)。観劇できなかった方は劇団ホームページから予約して、美しくて怖ろしい世界、『ミッドサマー』と『散ル 咲ク ~わらう花』を是非見比べてほしい。そして秋山氏による鏡花解説が当てはまるか否か、確認していただきたいと思う(的外れだったら御免なさい)。
いつも以上に演劇の内容に触れない感想になってしまったが、DVDを観ていただければ理解していただけるのではないかと思う。言い訳ではないが伊藤整の泉鏡花評を紹介して終わりにしたい。
「泉鏡花という作家の小説は、その設定やその筋を確かめて読むべきではなく、歌舞伎や文楽のように、その場面の一つ一つを味わい楽しむべきと思う」
2020年3月27日(金)19:30 3月29日(日)14:00
生活支援型文化施設コンカリーニョにて観劇
text by S・T