コロナ禍の中、恐るべきもの  劇団怪獣無法地帯『ねお里見八犬伝』

作・演出 棚田満。

札幌演劇シーズンは積極的に観に行くことはなかったが、気になっていたのは劇団怪獣無法地帯の公演が無かったこと。選考の仕方に問題があるんじゃないかと文句の一つでも言いたいところだったのだが、絶好のタイミングで怪獣無法地帯の八犬伝が上演となった。何故と言ったら馬琴の南総里見八犬伝は、天保の大飢饉あり、天保の改革により芝居をはじめ庶民の娯楽も規制されたりと、大変な時代に書かれたもの。コロナ禍で苦しむ現在と重なる気がするではないか。それに馬琴は失明という苦難を息子の妻の協力により口述筆記で乗り切ったが、怪獣無法地帯は公演期間中に体調不良による役者の交代(後半復帰)にも難無く?対応し劇団の底力を見せつける結果となった。「怪獣恐るべし」であった。

しかし今回ボクの関心を引いたのは、コロナ禍により外出を控えている方々のために、2公演を「生配信」することだった。公演終了後にDVD化や動画配信がされることはあっても公演期間中の動画配信はボクの経験にはない。時間を置かずに劇場での観劇と、動画配信による観劇を比較してみたかったのだ。結果は思いのほか良かった。もともと面白い演劇は映像で観ても面白いと思っていたが、カメラワークでの変化もあり、その意味では劇場で観るより楽しめた部分がある。難点があったとすれば、小声のセリフ等が聞き取りにくかったところだ。技術的な問題なのか、あるいは予算の問題なのか、素人のボクには分からないが改善できればと切に願う。

ただ『ねお里見八犬伝』には、多少セリフが分からなくても引き込まれる何かがあった。そういう意味では映像化に適した作品だったのかもしれない。わざわざ「映像化に適した」と断りを入れたのには理由がある。劇場では面白かった作品であっても、映像化の際セリフが聞き取り難くなり、半減どころか魅力が激減してしまうこともあるからだ。

“We’ll hear a play, tomorrow ”とシェイクスピアにあるように、もともと芝居は「聞く」ものだったのだろう。久野収氏が「セリフの三つや四つ聞き落としても筋は分かるし、面白いところへきたらアハハと笑える」と『思想のドラマトゥルギー』でシェイクスピア作品を評しているが、「聞く」ものだからこそ多少聞き取れなくても筋が分かる工夫が演劇には必要なのかもしれない。視覚と聴覚のバランス。憎むべきコロナ禍ではあるが、映像化を計算に入れた作品作りが何か新しいものを生み出していくことを期待する。

話は変わるが、学生時代『恋する惑星』という映画をビデオレンタルしたことがある。ストーリーは全く憶えていないが繰り返し再生し、映像を観ずに日常生活の中で声と音楽を聞いていた。もちろん字幕がなければ意味が分からないのだが、聞いているだけで心地よかったのを憶えている。(続編の『天使の涙』をキノさんで観たけどボクには合わなかったのが残念)そして『恋する惑星』といえば金城武。金城武といえば『リターナー』で鈴木杏。杏ちゃんといえば今年の秋に上演される、野田秀樹版の『真夏の夜の夢』である。この作品には『ハルフウェイ』で北海道との縁も深い北乃きいちゃんも出演する。札幌でも上演の予定ではあるが、今のところ、なかなか難しい雰囲気である。

「人が人を想う力、慈しみ支えあう力があれば、必ず里は甦る」

これは『ねお里見八犬伝』での伏姫のセリフだ。コロナ禍の中、ボクが『真夏の夜の夢』の上演を願うのは伏姫の想いに反するのか否か、それが問題である。

 

2020年8月12日(水)19:30 生活支援型文化施設コンカリーニョにて観劇

2020年8月14日(金)19:30 生配信にて観劇

text by S・T

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