いつか札幌で公演してほしい、と思っていた京都の劇団「地点」が札幌に来た。瞑想子さんとともに観に行ったのだけど、不完全燃焼感がぬぐえない。今回の作品『だれか、来る』に対して、さほど情報を入れておらず、勉強不足だった私が悪いのかもしれないけれど、仕事帰りにふらっと観に行く舞台に身構える必要ってあるかな?とも考えてしまう。
男と女がいる。2人は人里を離れたところにある家を買った。世間を離れ、誰とも会わなくていい、「二人っきり」でいることを願っている。そこに、2人に家を売った男がやってくる。その家は自分の祖母の家で、いつも来ていたから良く知っていると言う。その男はまた来るのか、もう来ないのか。男と女はその男の存在によって…というのがだいたいのあらすじ。
地点はこの本を「独特の手法によって再構成・コラージュして上演」(公演チラシより)した。そして、地点のこのスタイルは「言葉の抑揚やリズムをずらし意味から自由になることでかえって言葉そのものを剥き出しにする手法はしばしば音楽的と評される」(同)。何度か地点の舞台を観ていると、たしかに書かれている通りだけれど、そんなにこねくり回した表現よりも、それは三浦基ならではの演出の切り口、見せ方だと受け取っている。例えば、チェーホフの『三人姉妹』。いろんな演出家の舞台を観ているが、地点の上演(たしか2015年)は、セリフを発しようとすると誰かに体を絡め取られ、プロレスというか柔道の寝技を立ってやっているようなことが延々続く。それは、人は言葉で伝える以上に身体の方が物を言っている、言葉で伝えなくても身体は主張する、それをあえて視覚化している-とも見て取れたのが面白かった。ただそんな風に楽しめたのは、私が『三人姉妹』の内容や、全てではないけれど地点の見せ方を知っていたことが前提になっているのかもしれない。
さて、今回の『だれか、来る』は、ノルウェーの作家ヨン・フォッセ(以下、ヨン様)の作品だ。ヨン様は数々の文学賞を受賞しているすごい人だけど、私はこの本も含めてヨン様の作品を読んだことがない(これが勉強不足だという点)。三浦の演出や役者の演技以前に、ヨン様の本のベースとなっているだろう北極海に面したノルウェーの荒波や荒涼とした風景が見えなかったのは、単に「ヨン様を知らなかった」ことが大きいのだろう。そういう思い返しがあり観劇後、今回の札幌公演についてどういうPRがなされていたのかと調べたところ、北海道内の発行物に三浦のインタビューや作品の詳細を記した記事はなかった(チラシや劇場のHP以上のものがなかった、ということ)。地元紙すら、札幌文化芸術劇場の年間行事紹介でしか『だれか、来る』を取り上げていない。地点の札幌初公演が「そこまでPRするものではなかった」のか、「そこまでPRしなくても集客できる」と踏んだのかはわからないが、観劇前に公演について調べようにも、そもそも情報がなかったことを観劇後に知ったのである。
それはともかく、地点の『だれか、来る』について。男、女、家を売った男それぞれに役者が2人ずついる。表で「実際に言っている」人と、裏で「思っていること(いわゆる本音)を言う」人がいて、その表と裏が入れ替わりつつ、せりふの内容が微妙にずれている。それがいい意味で気持ち悪かった。一緒にいたいと言っていてもどこか後悔の念を感じられたり、女が男を裏切ってしまう瞬間が垣間見えたり。人間の滑稽さは国や年代が違っても同じで、そこに面白さを見出してしまう自分も滑稽なのだなと実感した。また、私は小林洋平さんのへらっとした演技や妙に俊敏な動きが大好きなのだが、今回もそれを間近で見ることができて嬉しかった。
さてさて。『だれか、来る』は新型コロナウイルスの感染拡大が止まない中での上演となった。札幌文化芸術劇場のHPを見ると、「スタッフの対応」「お客様へのお願い」等が書かれているが、実際はそんなに厳密になされてなかったように思う。実際に劇場に入った時に、HPの記載と「違うんじゃない?」と思ったのが次の2点。
〇会場内では、他の来場者と十分な距離を取ってください。
○座席でのご歓談はお控えください。
客席、間を空けずに座われるようなスペースはなかったですよ? マスクを着けていたけど顔を近づけてお喋りしてましたよ? それを注意する人もいなかったですよ?
また、コートを着ておらず首から社員証みたいなものをぶら下げていたから、同じ建物もしくは地下街を経由して来た人たちなのだろう。数人で来て真横にずらっと座って、開演直前まで話し続け、あげくの果てに終演後即「寝ちゃったよ~」と結構大きな声で笑い飛ばすのは何か。札幌の、一部の人の観劇マナーの低さに呆れた。
2021.1.15 札幌市民交流プラザ クリエイティブスタジオで観劇
text by マサコさん