①大事なのは「どんな体験を受け取ることができるか」。
自粛下で世界の変容を待つ私(たち)の物語
まずは2020年7月の、映像演劇の鑑賞体験について書きたいと思う。
私は映像演劇について何の予備知識も持たず、著名な演劇人による映像インスタレーションを観るような心づもりで会場に行った。最初に目に入ったのは、男女の俳優の等身大映像が「立って」いる一番奥の大きな壁面(大画面)だった。
男女はダイアローグのようでいてモノローグのようでもある言葉を紡いでいる。身体は言葉とは関係なく奇妙な動きを続けている。衣装は普通そうでいて不自由さをイメージさせるもの。言葉(会話、作品)はどこが始まりでどこが終わりなのか、判然としない。
会話が一巡したと思われるところで会場内を見渡すと、ポイントと思われる場所が大画面の他に3つあった。
そのうちのひとつは入り口側の壁の隅にあり、大画面から抜け出した俳優がそこに「寄りかかって」いた。私は大画面と壁の隅の両方が見える位置へと移動し、しばらくは双方を交互に視界に入れて言葉を聞き、法則・関連のあるなしについて考えた。
それから、会場を区切っているカーテンの揺らぎとその向こうの人影を見つめ、また奥の大画面と見比べて関連性を考えた。その後に、小さな丸テーブルのそばに立って、聞こえてくる声に耳を澄ませた。
最後にもう一度、大画面の俳優たちの奇妙な身体を見つめて言葉を聞き、さらに「ポイント」をもう一巡りして、私は会場を後にした。
後にわかったのだが、会場には4つの作品がそれぞれに展示されていたのだった。
大画面の作品は『ダイアローグの革命』。入口側の壁の隅の映像は『仕切り壁が仕切りを作っている』。カーテン越しの女優のモノローグは『カーテンの向こうで起きていること』で、丸テーブルから声だけが聞こえたのは『高い穴のそばで』だ。
だが、私は全体をひとつの作品として受け取った。
そして、「ああ、これはまさに私が感じていることだ。今の時代に生きている私(たち)の世界を描いた作品だ」と思った。
感染症流行による自粛下の「世界」と「私(たち)」の不確かさ、変容を待つ時間に生きるていること=動き出せない・拘束された現状、心の内側に抱え続けている世界と自分のあり方への煩悶。
一方で、カーテンで仕切られた小さな部屋の内側の平穏さ。どこまでも広がっている情報網が伝える世界の喧噪と、乖離した「私の日常」。
狭い穴からのぞき込んだ範囲しか見えないインターネット世界、様々なものが渦巻き広がっていて、いま私が投げ入れる小さな石も、私が忘れた頃にはるか遠くの誰かを傷つけるかもしれない…。
俳優たちの言葉を、私は詩のように受け止めた。そして、私の内側にある未精製の思考を言語化して投げ返されたかのようだ、と感じた。
映像演劇という形式についての考察を、私はしなかった。
ただ、「なるほど、これは演劇だ」と思った。
脚本という呪文の書をイリュージョンとして立ち上げるために、演出家=魔術師は魔法陣を作る。俳優は魔法陣を作用させるために置かれる魔法石だ(演出家=魔術師についてはこちらを参照)。
映像演劇は新しいスタイルの魔法陣なのだな、と、私はすんなり納得した。
新しいスタイルを心地良いものと感じていたが、その理由については深く考えなかった。
会場を出て日々の暮らしに戻ってからも、疫病の流行によって社会の歪みが可視化されるたびに、私は『風景、世界〜』を思い出していた。最初はどこか遠かった騒ぎは隣の部屋の慌ただしさとなり、ついにカーテンの内側にまでやってきたように感じた瞬間もあった。ああ、あの作品が描いた世界はこのように続いている、と思った。(②に続く)
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②ある演劇作品を観て気が付いた、
「映像演劇」が観客にもたらした3つの自由
チェルフィッチュの映像演劇『風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事』
作・演出/岡田利規 映像/山田晋平 出演/足立智充、椎橋綾那
2020年7月17日観劇
札幌文化芸術交流センター SCARTS SCARTSコート
text by 瞑想子