演出家による支配からの解放、つまり革命② チェルフィッチュの映像演劇『風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事』

前編①大事なのは「どんな体験を受け取ることができるか」。自粛下で世界の変容を待つ私(たち)の物語
 
 
②ある演劇作品を観て気が付いた、
「映像演劇」が観客にもたらした3つの自由

 
 
あれは演出家による支配からの解放だったのだ、と気が付いたのは、『風景、世界〜』の鑑賞から半年が経過してからだった。きっかけとなったのは、道外のある劇団の来札公演の観劇だった。

※以下、作品『D』(仮称)の観劇体験を挟む。端的に結論に進みたい方は下の☆☆☆を押してショートカットしてください

 ☆  ☆  ☆ 

『D』を観たのは、「日本の演劇シーンにおいて評価されている気鋭の演出家の作品」であると聞いて、「札幌で上演されるなら観ておくべき公演」と思ったからだった。演出家・劇団についての知識はその程度で、余計な先入観はなかった。

作品についてのヒントは、フライヤー等の情報のみ。
書かれていたのは、脚本が遠い国の凄い人の作であるということ。そして演出家は、「(言葉の)意味から自由になることでかえって言葉そのものを剥き出しにする、音楽的と評される独特の手法を用いる」ということぐらいだ。

『D』の上演時間70分は、大変に長く感じた。

不可解に繰り返される俳優たちの奇妙な動き、不思議な音律で何度も繰り返される意味ありげなセリフ、不規則に明滅する吊り下げられたライト。それらの繋がりや関係性を探るも、概ねわからないままに時間が過ぎていく。物語に少しの変化が生まれるまで、20分くらい? 30分? そしてまた続く、同じようなシーン。美しくとも意味を見いだせないものに集中を保つのは、なかなかの忍耐だ。

それでも鍵となりそうなものを逃さないようにしつつ物語が動く瞬間を待って、最後にやっと訪れたのは、「意味ありげ」なところから想像していた純粋あるいは狂信的な愛でも、闖入者登場によるサスペンスでも、スプラッターな過去からのホラーでもない、よろめきドラマだった。それも、「ほら、女が語る愛なんて信用できないだろ?」と冷笑するような(と、私は感じた)。

焦点がそこだとわかって思い返せば、全体のあちこちに滑稽さが仕掛けられていたように思う。劇団のホームで上演したのなら客席から笑いが出ていたのかもしれなかった。

演出家の冷笑に私は共感できなかった。人の心の移ろいを、(その背景は語らずに)ここまで長々と時間をかけて笑う、というのはいかなる心性だろう。演じている俳優、観ている観客に対してのサディスティックな支配ではないか。演出する人間は放出し切って心地良いのだろうが、付き合わされた私は不満足だった。

70分ではなく20分でいいじゃないか。それなら私も、見せ方のバリエーションを味わったという満足のうちに観劇を終えたかもしれない。
あるいは70分が、怒濤のように「意味」に翻弄される、またはもう少し「意味」を掴みながら味わう時間だったなら。冷笑に繋がる人間心理の背景を想像させるものだったなら。

…などと考えていて、気が付いた。
チェルフィッチュの映像演劇には、演出家による体験時間の支配がなかったのだ、と。

そこから改めて、映像演劇が観客にとってどのようなものであったかについて考えを巡らせた。

 ☆  ☆  ☆ 

映像演劇の鑑賞では、観客は通常の演劇鑑賞に比べて自由だ。

第一に、時間の使い方において自由がある。
作品はエンドレスに上演されているのだが、演出家はそれについて「ここ(この時間)から観ろ」「ここ(この時間)まで観ろ」という指定をしていない。観客は好きな時間に会場に行って既に始まっている作品時間の流れに入っていき、好きな時間に出ていくことができる。

つまらないと思えばその瞬間に会場を出ればいいし、逆に満足できるまで時間を使って繰り返し観ることも可能だ。その決定権は観客にある。

※話は少々ずれるが、札幌で演劇を観ていて「聞き逃した!もう一回言って!」と思うことがある。重要なセリフを一定の時間の流れの中でスルリと語らせてしまうと、初めて物語を観る人間にはキャッチできないことがあるのだ。本筋と関係ないギャグはアタックをつけて何度でも繰り返すというのに、なんたること。演出家は観客の集中力を信用しすぎないほうがいい。
その点において、藤田貴大氏の「リフレイン」はとても優れた手法だ。観客の集中力・記憶力を過信せず、大事なシーン・大事な言葉を何度も繰り返してくれる。それでいて単なる反復ではないから飽きることがなく、感情をかきたてられていく。素晴らしい。

第二の自由は、身体の状態においての自由だ。
映像演劇では、観客は椅子の上にじっと座り続けている必要はない。
座ってもいいし、好きな場所に立っていてもいいし、歩き回ることも、足や腰を伸ばすこともできる。

「居心地の悪い椅子に座っている人は、快適な椅子に座っている人よりも、見せられたものに対しての評価が低くなる」というような実験結果があるそうだ(詳細はうろ覚え)。

個人的にも、小劇場に多いあまり快適ではない椅子は、上演時間が長くなるほど観ている作品の評価を下げることに協力してしまうように感じている。

※稽古で鍛えた演劇人の身体にとっては、劇場の椅子の上に120分間じっと座っていることは、さほど負担ではないのかもしれない。けれど、私のように専ら椅子に座って仕事をしている人間は、そもそも座ることに疲れている。正直、上演時間が60〜70分と聞けばちょっと安心するし、90分だとやや不安になるし、120分ともなればかなりの忍耐を覚悟して臨む。(もちろん、身体の不快を吹き飛ばすほどに面白い作品もなくはない)。

そして第三に、「反応せよ」という圧力や同調圧力からの自由、「反応しない自由」がある。
映像演劇の会場には、実態としての俳優も演出家もいない。私という観客の反応を伺っている・察知する人間はいない。だから、私が何を感じどんな反応をするのも自由だった。私の感じたことは徹頭徹尾、純粋に私だけのものだった。

通常の演劇では、「ああ、笑って(拍手して)ほしいんだな」と感じる舞台上の仕掛けに対し、演出家や俳優におもねって笑ったり、同じ観客の目を意識して拍手したりしてしまうことがある(心が動いて自ずから、ではなく)。いや、私は8割方はおもねらないのだけれど、「自分は演出家や俳優の期待を裏切っている」というような感覚があり、それなりに居心地が悪い。
上手くのせてくれて楽しめるときもあるが、のってしまった結果「ああ、なぜこちらが付き合ってやらねばならんのだ」という気持ちになることもわりとある。

そんな観客は稀かもしれないが、ともかくも私という観客には、反応しようがしまいが誰も関心を払っていない映像演劇というものはとても心地良かった。

※ここまで書いて気がついたのだが。チェルフィッチュの作品を観て「反応を期待されている」と感じたことは一度もなかった(笑)。私は、観客の反応によらず自分たちの世界の完成を目指している作品が好きだ。
演劇関係者は「観客の反応がよかったのでいい芝居になった」というようなことをわりと言う。これを聞く度に、私は「俺たちがお前の前でいいパフォーマンスをできないのはお前が不感症だからだ(お前が空気を読んでいい反応して俺をのせるべきだ)」と言われているようで、あまり愉快ではない。観客の反応が良かろうと悪かろうと一定以上の完成度のパフォーマンスを、と願うのは贅沢だろうか。

 ☆ 

さて。
ちょっとした発見について書き始めて、思わぬ長い文章となってしまった。

映像演劇『風景、世界〜』は3つの自由によって、私にとってよりよい観劇体験となった。
そうと気が付いて、「ああ、これは演出家による観客支配からの解放だ」と思った。そして「つまりこれは革命かもしれない」とも。

哲学者の内山節氏は、「革命は人々の『飽き』によって起こる」と言っていた。例年行われている小さな勉強会で、労働史について話していた流れでの発言だったと思う。

「革命は、虐げられている側だけの蜂起では成功しない。既存の社会システムで利益を得ている側の人間(貴族や富裕層など)が賛同し助力して成功する。この行動について、自分が損をするのになぜだろう、と考えると、それらの人々が今までの状態に飽きたからとしか考えられない」と。

冗談のようだが本気での発言だ(たぶん)。

演出家は観客の観劇体験を支配している。それは観劇の前提として当然のことであり、観客が決起して解放を叫ぶ、なんてことはもちろんあり得ない。演出家・岡田利規氏も、観客解放のために映像演劇を創ったわけではないだろう。

けれど、「既存の演劇の成り立ちへの疑い」をベースに創られている映像演劇は、つまり既存の演劇手法への「飽き」が背景にあるとも想像できるわけで、その試みはやはり「革命」といってもいいように思う。
 
 
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①大事なのは「どんな体験を受け取ることができるか」。自粛下で世界の変容を待つ私(たち)の物語

 
 
チェルフィッチュの映像演劇『風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事』
作・演出/岡田利規 映像/山田晋平 出演/足立智充、椎橋綾那
2020年7月17日観劇
札幌文化芸術交流センター SCARTS SCARTSコート

text by 瞑想子

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