オーウェルの思いと脚色について  プロト・パスプア『1984年1001月』

ボクにとって1984年と言えばロサンゼルスオリンピックである。当時小学生のボクに、陸上競技4冠のカール・ルイスは衝撃的であった。そして1991年東京世界陸上、彼は100Mで当時の世界新記録を樹立した。記憶に残るアスリートである。その世界陸上の期間中に違う意味で記憶に残ることがあった。ソ連のゴルバチョフ、書記長職辞任のニュースが世界中を飛び交い、8月25日アナウンサーの徳光和夫氏がハンマー投で優勝したソ連のユーリー・セディフに「共産党解散おめでとうございます!」のような言葉をかけたのだ。さすがに政治に無関心なボクでも「徳光さん、それは無理だよ」と思ってしまった。案の定セディフは共産党にはふれず、周囲に対する感謝など謙虚なコメントをしたのだった。

他にボクが1991年に崩壊したソ連について語るとすれば、次のエピソードにより「匿名の必要性」を学んだことだろう。ゴルバチョフが「ペレストロイカだー!」とバルト三国で集会を行い民衆から意見を聞いていたときのことだったか、ここぞとばかりに意見する人がいた。たまりかねたゴルバチョフが「君の名前は?」と尋ねたらその人は黙ってしまったという。名前を聞く行為は「お前なんて、どうとでもなるんだよ」という意味だからだ。そんなことから時々SNS等で匿名が問題になるけれど、匿名は言論の自由を守るためには必要でボクにとっては議論の余地のないものだ。誹謗中傷と匿名は別の問題だと思うし、実名なら誹謗中傷していいわけでもないのだから。そして匿名どころかプライバシーの無い管理社会、全体主義の世界を描いたのがジョージ・オーウェルの『一九八四年』であり、カタリナスタジオのこけら落とし公演『1984年1001月』は、それを脚色したものである。(ちなみにジョージ・オーウェルは本名ではない。「ジョージ」はイングランドの守護聖人セント・ジョージに由来。オーウェルは川の名前。川端康雄氏の『ジョージ・オーウェル──「人間らしさ」への讃歌』によると、本名を使わなかった理由の一つが名前を使った黒魔術、呪術を恐れていたからとある。一風変わった理由ではあるが、言論の自由を守るための匿名と言えるだろう。)

 

「キップリングの詩集の最終版を作っていたんだ。ある行の最後に『God』という言葉があったのをそのままにしてしまったんだ。どうしようもなかったんだよ!その行を変えることは不可能だった。『rod』と韻を踏んでいたんだ。言語の中でも『rod』と同じ韻のものは十二しかないって知っていたか?何日も脳みそをふりしぼったよ。他の韻はなかったんだ。」

 

原作にある、拘置された部屋でのアンプルフォースの言葉である。彼は詩の改竄を担当していて、逮捕された心当たりを説明している場面だ。『God』は使ってはいけない言葉だったのだ。このシーンは今作では使われなかった。削られたこと自体に勿論問題は無い。しかし左右の全体主義を批判したオーウェル、将来の日本がそうならないように願って上演された今作。その文脈でみたとき、クラアク芸術堂のフェイスブックに投稿された「稽古場レポート」の内容に、その「願い」とのズレを感じたのはボクだけだろうか?その稽古場レポートには、役者さんがリチャード・ドーキンス(ボクと同世代ならドラマの『高校教師』を連想しますね)の著作『神は妄想である』を手にしている写真があった・・・。

外務省時代、ソ連に着任していた佐藤優氏は竹内久美子氏との対談本『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』の中で「ドーキンスの考え方は、単に『神は妄想である』とだけ主張するのなら、それはごく普通の無神論なんです。ところが、神とその宗教のもつ有害性を説くものだから、ソビエト型の戦闘的無神論になってしまう。かつてソビエトには「ズナーニエ協会(知識協会)」という組織があって、それは戦闘的無神論者同盟の後継組織なんだけども、知識を増やしていけば神というものはいなくなっていくんだとして、大変な啓蒙運動をくりひろげた。ドーキンスにもそれに近い匂いがするんです。こういう人たちが権力を取ると、大変な圧政になってしまう。」と述べています。佐藤優氏の見解はもとより、全体主義が思想統制のため宗教を攻撃するのは歴史の常です。(原作でも、犯していない罪を自白する場面で「自分が宗教信者」であるとするセリフがあったが今作ではカットされていたかな?)勿論ろくでもないカルト宗教もあるでしょうが、誰が言ったか「北朝鮮にカルトは存在しない(存在できない)」との指摘を重く受け止めるべきでしょう。

『カタロニア讃歌』では「すべての人間を人間たらしめるもののために」戦うと言ったオーウェル。『オーウェル著作集Ⅲ』に収められている『イギリス民族』ではキリスト教の主たる教義はおおかた忘れられているとしながら、イギリスの大衆を「おそらくヨーロッパの他のどの国民よりも、今でもキリスト教的」とするオーウェル。彼は『一九八四年』で神を信じてはいないと言いながら自分を道義的な人間だと思っている主人公に、教義を忘れながらもキリスト的なイギリスの大衆を重ねていたのかもしれない。(全体主義での生活ではそんな精神性もいつの間にか奪われてしまう?党への反抗活動についての覚悟を問われた主人公は、活動の利益になることならなんでもやると宣誓した。殺人も、子供の顔に硫酸をかけることも。)

これらのオーウェルの考え方と、「この物語はフィクションである。あなたがそうしたいと望むなら。」といった今作での反全体主義の文脈。それに反するようにドーキンスの『神は妄想である』を笑顔で手にする役者さんの写真に、ボクは違和感を持ってしまったのだ。オーウェルの思いが役者さんに伝わらないのであれば、脚色の在り方としては失敗だったのではないかと思ったのだ。けれど考えようによっては「演じているうちに信仰を失ってしまった役者さん!」という演出かもしれないと思い、そのあたりを役者さんや広報さん、脚色・演出の小佐部さんに聞いてみたいな、と思ったのでした。

追記「感想への補足」
 
 
2021年3月14日(日)15:00 カタリナスタジオにて観劇

 

text by S・T

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