冒頭、パペットの小鳥たちが舞台上空を横切った瞬間、サアッツと物語の魔法が立ち上がる気配がした。鳥肌が立つ、異世界につれていかれる、あの感覚。
あとはもう、舞台上の物語世界に引き込まれ、圧倒され流されるばかりだった。
少年と馬という無垢な存在ゆえに純粋なものとして伝わる愛と絆、物言わぬ馬の受難(を、さらにパペットという無機物を用いて描写している)ゆえに際立つ戦争の悲惨。
脚本、演出、演技、美術、照明、その他諸々、何もかもが高い完成度にあり、本当に素晴らしかった。
芝居が終わった瞬間、私は映像の中の観客とともに立ち上がって拍手を送りたいという衝動に駆られていた。
「演劇は舞台芸術」とされていて、私もそう認識している。しかし本音を言うなら、同じ舞台芸術とはいえオペラやバレエよりは一段下がるもののように思っていた。
けれどそれは、私が「圧倒的な技術力で構築された完成度の高い演劇」を観たことがなかったからだった、ということを思い知らされた鑑賞体験だった。
ナショナル・シアター・ライブ(NTLive)は、「英国ナショナル・シアターが厳選した、世界で観られるべき傑作舞台をこだわりのカメラワークで収録し各国の映画館で上映する画期的なプロジェクト」であるらしい。
『戦火の馬』はその作品のひとつだ。
私は道外・海外にまで観に行くほどの熱い演劇ファンではない(「ついでに観劇」はするけども)し、「道外の作品は映像でみよう」という考えも、これまではなかった。
映像化された演劇を資料・サンプルとして観る機会はあったけれど、概ね定点撮影されたそれらは劇場に立ち上がった魔術の痕跡をなんとかたどれるか…?というものだったし、テレビで放送された演劇にもあまり集中できなかった。
というわけで、私はこれまで「演劇はライブで観るに限る」と信じていた。
しかし。NTLiveの「世界で観られるべき傑作舞台」と「こだわりのカメラワーク」は本当に素晴らしかった(映画館の設備と環境も)。
厳密にいえば、劇場でライブで観たときの感覚とはやはり異なるのだと思う。けれど、劇場で立ち上がっている魔術と同様のものを体感することができたと感じた。
けれどまた、劇場で観るよりもNTLiveのほうが、少しばかり観客に優しいのだろうとは想像できる。
演劇を劇場で観る際は、舞台上のどこを観るべきか、演出家の仕掛けを見逃さないよう神経を張り巡らせている必要がある。しかしNTLiveでは、観るべきところは映像の編集によって選ばれている。馬の動作を見つめるべきときはそこに映像が寄り、舞台全体を見るべきときはそのような映像が来る。つまり、演出家の意図を追いやすい=想像しやすい。
それでいて、映画やドラマではない「まぎれもない演劇だ」という、想像力を駆使する感覚が続いていたのは、もしかしたら『戦火の馬』がパペットを用いた作品だということも大きいのかもしれない。
パペットを生命の宿った動物として物語に没入することは、演劇的なお約束を自動的に受け入れていなければ叶わない。
そういえば私は、冒頭の鳥のパペットの登場で、演劇の魔術を体感したのではなかったか?
逆にいえば、演劇的な特徴を明確に持つ作品、演劇性の濃い作品であれば、映像で観ても十分に演劇として体感することが可能、ということかもしれない。
「ふじのくに⇄せかい演劇祭2020」が中止となり、代わって開催された「くものうえ⇅せかい演劇祭2020」の開幕メッセージで、SPAC芸術総監督の宮城聰氏は配信コンテンツを「演劇みたいな何か」「蟹が手に入らないときの蟹カマボコ、演劇蟹カマボコ」と表現した。
一般庶民は美味しい蟹など滅多に口にできない。気軽に食すことができるのは蟹カマボコのほうだ。でなければ、ハズレの多い雑蟹か。
NTLive『戦火の馬』は、世界的に美味と知られたスペシャルな蟹のエキスをふんだんに用い、先端的な技術によって味わいを再現した「極上の蟹カマボコ」だ。英国まで観劇に出かけられない庶民もこのような美味を堪能できる時代になったことを、心から嬉しく思う。
→映像配信で観たほうが楽しめる、という演劇に出会ってしまった。 演劇を映像で観るということ② 劇団チョコレートケーキ『帰還不能点』
2020年2月 シネマフロンティア札幌にて鑑賞
text by 瞑想子